第1話 Allowance / 思うこと その3
辺境(茶色)の中に点在する緑色の丸がユルバン
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「どういうことよ!」
安普請の循環衛生庁の建物でもとりわけ狭いとされる小会議室に、秋山のキンキンした声が鳴り響いた。おそらく部屋の外にも聞こえているだろうし、何ならよその省庁にまで漏れていたって不思議ではないだろう。だが、上空に棲んでいる天使たちにまでは届いていないはずだ。僕たち斎僚は、天国という都市──天国以外にも都市はあり、それらはユルバンと呼ばれる──から上空へと伸びる、らせん階段の根元に集まった省庁で働く役人である。斎僚が他の役人と違うところは、天使に仕えているとえているという名目で、特殊な仕事を受け持っていることだ。
何をしていたか、と秋山は尋ねた。そう訊かれたらこう答えるしかない。何もしていなかった。精霊を神のもとへお帰ししたあとすぐちゃんと上に許可をとって、僕は昨日をまるごと、激務に疲弊した心と体をいたわるための安息日として設けることができた。朝寝、マッサージ、立ち呑み、地下プロレス観戦、そして銭湯。非の打ちどころのない素晴らしい一日だった。そこまで話してやると、秋山は手に持った紙の束を深いしわができるまで握りしめ、体じゅうをぶるぶるふるわせたかと思うと、ものすごい早業でその紙の束を粉みじんになるまで割いてしまった。
「あんたが昨日いない間に、こっちは大変だったのよ!」
「は?」
訳も分からないまま秋山に怒鳴り散らされているのが自分でもバカらしくて、思い切り間抜けな顔で返事してやった。そうしたら秋山が「シャキッとしなさい!」なんて目を吊り上がらせてさらに怒鳴るものだから、負けじとこちもにらみ返してやると、無言で殴られた。
「こういうのってパワーハラスメントって言わない?」
「いいから、まずは話を聞きなさい」
「そうだよ、さっさと話せばいいんだよ。あんたって本当に無駄な動作が多いね。そんなんだからいつまでも係長なんだ」
言い終わらないうちに、ビンタが僕の頬を三往復した。
「城が建ってるのよ! 城が!」
そんな馬鹿なことはない。僕はおとといしっかり、精霊を神のもとへ送り、その精霊が住み着いていた城はチリ一つ残さず空へと消えていったはずだ。確かその跡地には下水の管理施設か何かを新たに作る予定で、その工事はこの循環衛生庁の管理のもと、昨日からさっそく始まる手はずになっていたと聞いている。たしかに、城がその土地をふさいでいるのなら工事の計画は遅延するだろう。熱を帯びた頬を、僕は手の平であおいでなんとか冷ました。
「それは大変ですねえ」
「大変どころの騒ぎじゃないわよ、業者もたくさん来てたのに、みんなキャンセルになったんだから。何枚新しく書類を書いたことか」
「それって僕に関係ある?」
「あるからこうして言ってるのよ」
「そうですか、ありがとうございました」
「帰ろうとするな!」
回れ右して退散しようとする僕の襟首を、秋山は猿みたいに乱暴な手つきでつかんだ。
「なんだよ、この前せっかく精霊を帰天させたところじゃないか。人を働かせるのもいい加減にしてくれよ」
「いいから聞きなさい」
「まだ今回の分の給料ももらってないだろ、正規雇用されてる役人なのに成果報酬制でこき使われてるこっちの身にもなってよ」
「その報酬だってこれからのあなた次第じゃ払われないわよ」
「なんだって?」
僕は踵を揃えて秋山に向き直った。言うまでもなく、ユルバンに縛り付けられている精霊を、神のもとへ帰す仕事、帰天事業はハードで危険の伴うものだ。そして僕の手掛けていた事業のひとつはついおとといに、例の精霊の帰天をもって完結したはずだ。
だが秋山が言うには、まさにその精霊がいた場所に新しく、城が建っているのだという。城というのは、その土地に縛り付けられている精霊が、早く帰天したいという不満を表明するために発生させる巨大建造物である。
「つまり、あんたは例の場所にいた精霊をひとつ、見逃していたってことよ。結果として城ができたんだから、これはあんたの責任なのよ」
「話は分かったけどさ、そんなことあるかな」
「現にそうなってるんだから仕方ないでしょ」
「でもさあ、事業を始める前に結構ちゃんと調べたけど、一柱しかいなかったよ。見逃してったってことはない」
「じゃあ、精霊が新しく来たんじゃないの」
「そんなこと起こるわけないだろ? これだから素人は」
僕が言い終わるか終わらないかのうちに再び秋山の目が吊り上がり始めたので、僕は「じゃあちょっと現地に行ってきます」と言い残して足早に小会議室を出ていった。おっかない奴の相手なんてするものではない。庁舎の出口に向かう廊下で、同じ循環衛生庁で働く何人かとすれ違った。その全員が、あざけるようににやにやした顔でこちらを見てくる。腹が立つ。駐輪場で自転車を押して歩いているあいだ、僕は世の中全体の苦労をしょい込まされているような拙い被害妄想に取りつかれていた。
実際、他の役人どもはどんなに偉そうな顔をしていても、ユルバンの地下のどこに魂が流れているか、どこに精霊が眠っているか、そんなことも知らないで斎僚をやっているのである。馬鹿じゃないか? あいつらが「私たちは信仰のために日々の勤めに勤しんでいます」なんてしおらしい風に装って蟻みたいに庁舎の中で動き回っていても、それは暗闇の中で訳も分からず棒切れを振り回して、頭上を飛び回るコウモリを叩き落そうとするのと似たようなものだ。神が何を望んでいるかだなんて、人間にも、いや天使にだってわかりやしない。ただ、精霊はおそらく帰天を望んでいる。精霊が神のもとへ帰れないでいるのは、まだこの世では神話が完結していないからだ。
かつて砂粒よりも多くの魂がどこにも属さないでこの世を漂い、彷徨っていたころの、僕ら人間の生活からは遠く離れた次元の出来事、すなわち神話のいくつかは、未だその尻尾のところをこしらえ損ねている。その後始末を、本来非力な存在であるはずの人間がしている。例えばその一人が僕だ。つまり僕は、今もってユルバンの大地にしがみつく精霊一つ一つを見つけては、そいつらが抱えている未完成の神話を終わらせてやることを勤めとしている。改めて思えば、これは人間一人が抱えていい仕事ではない。もちろん本当に一人で仕事をこなすわけでもないし、何より人ならざる存在の協力を得るからこそ僕はこの仕事ができているのだ。それにしても──
(文句があるなら、ちょっとは自分で何とかしようとしてみろってんだ。秋山のやつ、覚えてろよ)
僕は自転車のペダルを踏みこんだ。向かう先は、天国とユルバンの境目をなす高い壁だった。高い高い尖塔を囲む天国の街の終わりを告げる、高い高い壁の門を僕はくぐった。その先にはユルバンという都市の群れがあり、そしてさらに先には地獄がある。前者は僕が住む場所で、僕がいつも仕事をする場は後者だった。
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『天使たちがそのとき最初に見たのは、罪に濡れた人間たちだった。ほうぼうに散らばった彼らは、その目であらゆるところに金や財を索め、瞳には虚ろな夢を映していた。彼らは神の声とともにあるものではなかった。だから、天使たちが初めてこの世で行ったのは、彼らに罰を与えることだった。罪人たちのからだから立ち昇った醜い靄は、彼らのこころそのものだった』
透明な声で語られる物語は、数ある神話の端緒となる、一番はじめの出来事である。世界はそのとき、絶望から始まった。神話の解釈については色々な派閥があるが、さまよえる魂が世を満たしていた時代が絶望そのものだったという点に関してはほぼすべての派閥が一致をみている。穏やかに耳元まで流れてくる声を聞きながら、僕は寺の一室で紅茶を飲んでいた。
『彼らのこころは一途に、辺境のはじにそびえ立つ塔を目指した。その塔の周りでは、こころの残滓が飛び交っていた。
「見よ。お前たちの罪は、かくあるのだ」
天使たちはそのとき、自分たちの力を魔法の名で識っていることに気づいた。それは神から与えられた名だった。続いて、自分たちにこころというものが備わっていて、考えることと思うことのすべてがこころの中で起きていることに気づいた』
きらびやかな虹色で彩られた寺の飾り窓からは、鳥の形をした残滓の群れが飛び交っているのが見える。残滓の甲高い鳴き声は、かすかにではあるがこの部屋の中まで届いている。次第に濃さを増していく夕闇で、残滓の黒い体は空に溶けてゆくようだ。ほの暗い黄昏色の中で、残滓の真っ赤な目だけが煌々と輝いている。燃えるような赤い一つ目。その赤い一つ目の中心にある瞳は墨のように黒い。その黒さは、この世には地獄というものが確かにあるのだとユルバンの住民に教えているようだ。
『こころとは、神から与えられた生のかたちだった。天使たちはそして最後に、自分たちが人間の姿をしていることに気づいた。その姿は、神から与えられた体だった。
「私はお前たちにこころを与える。お前たちはこれから、死神と共に生きる。ユルバンを打ち建てるための礎となる柱の数を、今日からお前たちは指折り数えることとなるだろう」
それが、神からの最後の言葉だった。神の言葉が響かない空の下で、天使たちはようやく、神が自分たちに罰を下したのだとわかった』
そこまで読んでしまって縹霰は、手にしていた本を丁寧な動作で閉じた。透明な声が途切れて、液体ガラスみたいな空気をたゆたっていた僕の意識は焦点を作って目覚めた。
「あら、もう少し寝てくれていても構わないのよ」
「居眠りしてたわけじゃない。ちゃんと聞いていたさ」
「そう? 気持ちよさそうに舟をこいでいたように見えたわ」
「まあちょっと疲れてることは否定しないけど」
秋山がうるさく言うので、ぼくはあの後に城がまたできたという例の場所へ行って、そして精霊がその中に立てこもっているということを確認してから天国の庁舎へ戻り、がなり立てる秋山をなだめるために書類仕事をひと段落してからいったん帰ってきたところだった。ここ、僕が一間を借りている城塞という建物の同じフロアに、この縹霰という僧侶は寺を開いている。縹霰はおいしいお茶を淹れるのがうまいから、時々こうしてごちそうになっているというわけだ。
「いやいや、いつもながら聞き入っちゃうね。縹霰の声はきれいだから」
「あらありがとう。実はね、私の説法って結構評判いいのよ」
いたずらっぽく縹霰は笑って、テーブルの上に置かれていた法具とおぼしき金属の装飾品を取って指の中で転がした。ユルバンと天国の境界に位置する城塞──神話時代からあるという、なぜ今でも残っているのか不明な建造物──の一室に、寺として誂えられた部屋の調度品は、あらゆるものが極彩色で色どられている。縹霰の持っている法具から、神話の一幕を描いたとされる絵画を真ん中に据えた祭壇、天井の明かりの飾り、それから箪笥や急須といった日用品までもが徹底的に、紫から黄色、青にオレンジといった色が蛇みたいに絡み合った模様をまとっているのだ。それらがいかに鮮やかでも見ていて目が痛いと感じないのは、きっとこの寺の静謐な雰囲気が居るものの気持ちを落ち着かせてくれるからだ。そしてそれは縹霰の穏やかな人柄によるところが大きい。
「もう澄ちゃんはさっきの話は飽きるほど聞いただろうけどね」
「まあ、それはそうだよ」
「どうだったかしら、改めて通して聞いてみて」
「ありがたいお話をしてもらってすまないけど、僕には今ひとつピンとこないや」
「本当かしら?」
そう言って縹霰は、ゆっくりと視線をこちらへ向けた。
「それはあなたがこころを閉じているからよ。天使、死神、天国、地獄、神、そして魔法──どの一つとっても、あなたにとって身に迫る切実なことがらであるはずよ」
「たしかにそのはずなんだけどね、でも僕は疲れたんだ、真剣にそういうことを考えるのを」
縹霰は理解しているはずだ。たとえユルバンに住居を構えていたとしても僕は天国に勤める身であり、それも天使に仕える役人の斎僚の身であるという世間体をある程度保ちつつも、実際は天国の外──点在する都市の群れ取り囲まれる形で、天国はそれらの中心に位置している──の粗末な住居で、およそ役人らしくない粗末な生活を送り続けている。そんな自分自身を情けないと思うこともできず、ただただ僕はうんざりしているのだ。
「何もかにも愛想を尽かしてしまうのにはまだ早いわ」
悪態をつく僕に嫌な顔ひとつせず、むしろ縹霰は涼やかな笑顔を向けてみせた。
「だから、仕事もいつも通り死神と一緒にこなしてしまうことね。私に頼むんじゃなくて」
「ちぇっ、ばれてたか」
「あなたの顔を見ればわかるわ。きっとさっきまで、仕事を抜けてそのあたりの立ち飲み屋で一杯やってからここに来たんでしょう」
「おいおい、まさか後ろをつけてたのか?」
「さあ、どうかしら」
「そんなに大した量を飲んだつもりはなかったんだけどな」
「わかるわよ、そのくらい。さあ、もう行きましょう。私も出るから」
絹の布地が波打つように滑らかな動作で、縹霰は立って支度を始めた。
「あれ、もしかして一緒にデンドロカカリヤまで来てくれるの?」
「残念だけどそういうわけにはいかないわ。ただの夕飯の買い出し。まあせっかくだし、地下鉄の駅まではご一緒するわ」
「ちぇ。まあそうだろうなとは思ったよ」
らせんの模様をあしらった寺の戸を開けると、いつも通り無法地帯さながらの粗大ごみや廃材の転がった廊下があった。乾いた空気に僕たちの足音はよく響き、子供が口の内側で舌を使って鳴らす音みたいに軽いその響きの中で、縹霰と僕は、鍋で作る煮物にどんな調味料をどのくらい入れるかとかいったような他愛もないことを、ささやく声で話しながら歩いた。