第1話 Allowance / 思うこと その1
閃光は祝福ではなかった。空を貫く一筋の明かりが、紫から緑、黄色からまた紫という周期で、心臓が脈を打つかのようにゆっくりとその色を変えていくのは、押し殺した怨嗟、呪詛、殺意をほのめかしているかに見えた。抑圧されたそれらの感情は、拍出される血液のように、閃光の帯を伝って天から地へと届けられていた。
『円環に囚われた回転蟲のあなた方を、私は想います』
僕たちはその声を聞いた。声は音ではなかった。その祈りが僕たちのこころに届くことは、次のことを示すものだった。神は存在する。なぜなら、このように精霊が存在するからだ。そして、次のことも述べていた。精霊はたった今、この世から解き放たれ、神の御もとへ帰る。
『私はあなた方が、苦しみと可能な限り無縁であることを祈ります。私はあなた方がこころを持つことの重さを知ることを祈ります。神があなた方のことを想うように、私はあなた方が神のことを想うように祈ります』
祈りは肉切り包丁みたいに、僕たちの思考を切り取り、闇の彼方へ葬っていく。そうして僕たちは乾いた土壺みたいな、ただ口を開けているだけの虚ろな自分たちの在りようを突き付けられる。僕たちは虚ろで、だから僕たちが所持している視覚もまた虚無にすぎない。目を刺すほど強い閃光の明かりに照らされた街並み──九階まである細長くてボロボロの建物、その根元で大通りに沿って居並ぶ薄汚い商店たち、吐瀉物の落ちていそうなガラの悪い盛り場と、その看板として使われている人を丸呑みできそうなほどに大きい花、そして銅像や墓石や鉄塔や巨大な魚の骸骨といったものの形をとる素性不明の記憶、そしてそれらの間にひしめき天空を見上げる虚無たちの群れ、回転蟲と呼ばれた人々──ユルバンと呼ばれた都市の姿はすべて精霊が放つ光のもと、張子の虎のごとく押せば倒れそうな脆弱なものとして映し出されている。そう、精霊は信仰こそが虚無の悲しみを脱する唯一の経路なのだと僕たちに教えている。
ひときわ強い光が、雲の切れ目から降り注いだ。その黄色い明かりは、僕たちの目の前にそびえ立つ、石の壁が集まってできた城を照らし出す。人間が最大限に天を見上げてようやく頂が見えるほどに巨きなその体と、岸壁のごとく武骨にごつごつと盛り上がっていて、近づくものを威圧する、精霊の住処であった城。それの外表面は光に照らされた瞬間に亀裂が入って断絶していき、一つの体だったものはみるみるうちに小さいかけらとなる。しかしそれらは崩れ落ちることはない。
『御もとへ帰る幸せに、感謝いたします』
声とともに、石のかけらは光の差す元のほうへと導かれ、浮き上がって昇っていく。つい今まで城を形づくっていたのが細かい礫となって渦を巻くそのわずかな隙間から、声の主と思しき者の姿が見え隠れした。粟だった粒のように集まる、いくつもの瞳。それがほんの一瞬、僕と目を合わせた気がした。思わずおののいてしまう。一瞬の空白。そのわずかな間に、礫の渦は天高くまでたどり着き、雲の向こうへと消えていった。
精霊は去った。僕は──そう、他ならぬ人間であるこの僕が──天使と、そして死神と力を合わせて、この世のものでないかの存在を天へ帰したのだ。空は夕暮れの赤さを取り戻し、見物していた人々はそこらじゅうでため息を漏らしながら続々と帰路についていく。だから僕も彼らと混じって、他の人間がそうであるように、住むところへ帰ることにした。こうして精霊が去ったときほど、自分が役人であることの重圧が背中にのしかかってくるときはない。すぐ横に立っていた秋山に、じゃあまた週明けね、と挨拶した声は、疲れでかすれていて風の中に消えてしまいそうで、無断で退勤したと勘違いされないか心配になったほどだ。しかし秋山は平気な顔をして、お疲れ様、と返事してきたから、僕は馬鹿馬鹿しい気持ちになって地下鉄の駅に向かって歩き始めた。
精霊は去った。ということは、僕はひと仕事を間違いなく終えたのだ。それは世間に誇っていいはずのことである。だが僕はうんざりしていた。大仰なことを考えるよりは、まず今日の晩に食べるものと、明日何時に出勤すればいいのかと、それからこの仕事の成功で一体どのくらいの歩合給が振り込まれるのかといった卑近なことで頭の中を埋め立ててしまいたかった。
仕事現場の最寄り駅の階段を下り、地下鉄に乗り、家の最寄りで降りてそれから階段を上り、家に向かう途中の肉屋で僕はコロッケを三個買った。家の冷蔵庫にはいくらか漬物があったはずだから、それを付け合わせにすれば夕飯としては十分だろう。やはり人間、食べることが何よりも大事だ。ねじり鉢巻きをした店の主人が愛想よく笑って、「澄ちゃん、仕事帰りかい」と尋ねてきたのに「ああ、うん」と気のない返事をしたら、店主は何やら心配そうにのぞき込んできて、「元気ないじゃないか、斎僚さまがそんなんじゃ俺たちの生活が思いやられるよ」なんて軽口を叩いてくる。
(けっ、何が斎僚だよ、こちとら好きで役人になんかなったんじゃないんだ)
顔が引きつりそうになるのを我慢し、僕は代金を支払った。店主はがさごそと音をたてて紙袋にコロッケを詰めている。こうして払う夕食代だって、つい数年前までは慎重に計算して捻出していたものだ。今週は卵を一日に一個は食べられるが二個は食べられない、魚を食べていいのは何日おきだ、そんなさもしい指折りを朝起きるたびに繰り返していたのだ。それが今は、ようやくこの訳の分からない業務内容にも慣れ、揚げ物をひとつふたつ買うくらいは遠慮のいらない余裕を手に入れている。
僕はこの仕事で得られるであろう報酬で、一体何ができるのかを想像していた。休みの日に地下プロレスを見に行く。それからちょっとおいしいものも食べたい。最近事務作業が多くて肩も凝っていたところだから、出張マッサージでも頼みたいところだ。あとそういえば、部屋の天井の修繕もずっと後回しにしていた。全部やればそれなりに費用はかさむことになるが、しかし今回の仕事にいい評価がつけばお釣りが来てもおかしくないはずだ。頭の中に現れた衡の紙幣とそこから今しがた思いついたものの代金を引き算してまだ手許に残るであろう額を、ただちに僕は算出した。案外悪くない。だが、こんなガラの悪い金の使い方をする斎僚なんて自分のほかにいるのだろうか? 事実僕の生活の行動というのは望んだことがそのまま反映されているのに、それらが加速するにしたがって僕はみすぼらしい暗闇の穴へと落ちていくのだ。なんともおかしな話だ。思わず、不謹慎な笑いが吹き出してしまった。
「なんだ、突然ニヤニヤして、案外元気じゃないか。もしかして、この後彼氏とデートか?」
「そんなに楽しそうに見えるか? 相変わらず変に目ざといな」
「素直じゃないな。楽しいことがあるなら素直に楽しまなきゃ損だぜ」
「あいにくさま、コロッケ持ってデートに行くやつがいるかよ、大体彼氏なんていない」
「俺はコロッケ持ってデートに来る女も嫌いじゃないぜ」
「そうかい、悪いけど遠慮しとくよ」
はっはっは、と僕は笑ってみせる。またな、と言って僕を見送る店主と、ああ、と返事をして帰路につく僕。生きていれば気持ちにぽっと温かい点みたいなものが灯ることはある。それは意味のないごまかしかもしれない。だがそんな小さなことを繰り返していけるから僕らは生きていけるわけだ。
(精霊が、天使が、死神が、一体何だっていうんだ)
確かに僕は斎僚という名で呼ばれる上級の役人だ。それはそれとして、あくまで、僕という人間は具体的に僕なんだから、その具体的な僕はしっかりと生きていかなくてはいけない。次の給料日が来れば、なんだかんだ言って僕はそれなりに気分良く金を使うことができるだろう。庁舎の大椅子にどかっと腰かけた審議官も、印鑑を手にきっと僕の仕事ぶりに喜んでいい査定をつけてくれるだろう。そう想像すると、まあこんな暮らしも捨てたもんじゃないな、という考えが頭をもたげてくる。肉屋の店主のおかげかいくぶん軽くなった足取りで僕は歩き出し、五分ほどで家に着いた。食卓に並べたおかずを一人で黙々と平らげているあいだも、どことなく温かい風が部屋の隅の方から吹いてくるようだった。
だが、次の登庁日の朝に扉をくぐるなり僕を待ち構えていたのは、気前のいい査定結果でも成功報酬でもなく、青筋を立てて怒鳴り散らす係長の秋山だった。