旅人の幸福
旅が人を変えるのか?
人が旅を変えるのか?
男は歩いていた。
酒に溺れかけたふらつく足取りで、両脇に酒場の並ぶ狭い道を、すれ違う人々にぶつかりながら進んでいた。
時折、悪態をつかれた気がする。
視界は霞み、僅かに吐き気もする。
この町の人々は、夜になると酒場に限らず人の家に料理や酒を持ちより、毎日が祝日であると言わんばかりに騒ぎ立てる。
男はこの騒々しい夜が好きだった。
眠れない夜に独り溶け込めば、自らの存在を薄れさせる。
奴らに目をつけられなければの話だが。
ここは港町。
陽気な住民で賑わう一方、夜は海賊の留まる町でもある。
奴らは簡単に人を殺したりはしない。だが、物を奪うだけでもない。何か気に障る事をすれば船に連れ込まれるという噂がたっていた。
きっと、思う存分拷問でもするのだろう。
笑い声や怒声、刃物のぶつかる音や店からもうもうと立ち上る煙の混ざり合う混沌の中、足元の石畳がプツンと途切れる。
我に返ったように。
男の視線の先、闇に音と光が吸収されたかのように、別の世界が現れる。
一歩でも下がれば酒場の通りに戻ることができるが、疲れた男は休息を求め先へ進んだ。
暗闇の中にあるのは一本の蛇行した細い道と、背の高い木々。
見上げれば、枝葉の間から満月がこちらを窺っている。
光は、月のみ。
澄んだ冷たい空気を胸一杯に吸い込むと、徐々に酔いが醒めてくる。
道を進むうちに、一件の小屋が見えてきた。
窓越しに明かりが見える。
住人はまだ起きているようだ。
小屋に住んでいたのは独りの老婆だった。
一晩、ここに泊めてくれるという。
わずかな金を渡そうとした男に、老婆は言った。
「金で礼ができるのは、相手が人間である時だけさ。」
早朝、小屋を出た男はまた歩き始めた。
ここはずっと、草原が続いている。
まともな道もない。
少し立ち止まって、腰を下ろす。
ゆっくりと、目を閉じる。
息を整える。
歩いている時には気付かなかったが、甲高く可愛らしい鳥の声。
小川の、ちろちろと流れる音。
じわりと暖まる陽光と、肌を冷ます柔らかい風。
春の匂い。
耳を何かがかすめ、目を開けた。
蝶だった。
羽の縁の青色が、内側に向けてエメラルドに変化している。鱗粉がキラキラと光を反射している。というより、光を集めているように見えた。
それくらい、美しかった。
男は幸福だった。
ただ何もせず、独りこの場所に居られることが。
酒場の喧騒も、人々の温もりも、男は好きだ。
だがそれとは違った。
何だろう、この感覚は。
言葉を交わさずとも受け入れられ、認められる感覚。ここに居て良いと、包容される感覚。
ふと思い出した。
金で礼ができるのは、相手が人間である時だけさ。
男は理解した。
目先の損得などではない。我々に求められているのは、共に生きることだと。
共存という幸福を守り抜き、互いに恩を分かち合うのだ。
男は立ち上がり、再び、歩を進める。