008
息が上がる。潰れた肺に空気が行き渡る。胸が苦しい。陸で溺れたように、窒息の素をむせ返す。濃密な花の香りに満たされた。ひんやりと軽い何かを掻き分けて手を胸に運ぶ。拍動に破れそうな心臓を押えるように、胸に爪を立てる。手に薄っすらと汗が浮かんでいる。
目を巡らせる。暗い。荘厳な音色と歌声がくぐもって聞こえる。これは、弔歌だ。
「何が、何やら……」
朦朧とした意識を押して、私は上体を起こそうとした。しかし、ガツンと額を打つ。怪我の功名で目が覚めた。涙目で、当たったところに触れる。手指で形を確かめる。平面――低い天井、いや、蓋か。指を滑らせてよくよく自分の置かれている状況を確かめてみると、どうやら私は仰向けで箱詰めにされているようだった。
身じろぐ度に花の匂いが甘さを増す。
「……おい、誰か」
蓋を叩く。返事はない。
「おい、誰もいないのか!」
力を込めて蓋を叩くと、外からひそひそ声がする。「今、動いて……」「しっ! バカなことを言うな」「だが確かに声も」「冒涜だぞ、控えろ」「しかし……」
ドン! と更に苛立ちを拳にこめた。どれだけ耳が遠かろうと、空耳を疑う余地など与えるものか。胸一杯に花の芳香を満たし、喉を枯らすつもりで声を上げた。
「卑怯者どもがこそこそと! 私を誰と心得る!?」ガタ、と箱を通して動揺が伝わる。どよめきも聞こえる。「疾く解放せよ! 不埒者……がぁ!?」
背中を衝撃が突き上げる。勢い余って蓋に頭をぶつける。箱ごと落とされたらしい。落とされた拍子に蓋がズレて、眩しい隙間ができた。隙間に手をかけ、邪魔な蓋を力任せに取り払う。箱の縁を掴み、憤懣のまま飛び起きる。生花を巻き上げながら立ち上がり、箱の縁に片足をかけ、腰に手を当て胸を張り、声高らかに叫ぶ。
「我こそは、マリアンナッ! インっヴァゾーっラッ! で、あぁーッる! 頭が高ぁーっいっ!」
やたらと語尾が寒々しく木魂した。頭上でパイプオルガンの荘厳な音色が尻すぼみに消えた。
光に目が慣れていく。てっきり私は悪漢好みの暗い地下牢に出たものと思っていた。だが、そこはどこかの壇上だった。下り階段の一段一段の両脇を聖歌隊が固め、こちらへ唖然とした顔を見せていた。何名かが楽譜を落とす。階段の下、目の前は開かれた広場となっており、その広さに対して慎ましい人数が、黒尽くめに身を包んで、こちらを仰いでいる。
風が生花を吹き攫う。
何だ、この状況。それに、頭が高い、と言うか、私の目線が高いような。ふと、手の平へ目を落とす。大人のようにスラッと伸びた指。知らない手だ。
困惑で熱くなる頭に、水を差された。まさに横から水をかけられている。見ると、聖職者風の男たちが、小瓶で指先を濡らし、弾くように私に液体をふりかけていた。
「其は星界より来ませり。其は秘跡なり。其は人界に蔓延る悪徳を一矢にて尽く滅する天の鏃なり……」聖句を唱える毎に、私は聖水でびしゃびしゃにされた。
「迷える魂よ、汝、冥府にあるべし。我、ここに聖なる御印を以て道を示さん……!」逆三角のペンダントが目に入らぬか。と突き出す男。
「聖水が効かない……? あ、悪魔憑きめ……ひ、ひいい!」同じくペンダント。
「荒ぶる不死者よ、聖なる源に還れ!」同様。
好き放題な言われように、こめかみの血管がビキビキと疼いた。
「無礼者どもが!」
頭髪に溜まった水滴が顔の輪郭を伝い、顎を離れる。その雫が箱に敷き詰めた生花を叩くまでの間に、私は徒手格闘で周りの男を一息で一網打尽にした。
「ふん、他愛もない」
最後の一人を伸した蹴りに残心を宿す。聖歌隊が色めき立ち、一人が階段を駆け下りてからは次々と後に続いて行った。
間合いに違和感がある。やはり、四肢が感覚よりも長い。拳も蹴りも無暗に振り抜いてしまった。足元に敷き詰めた花が舞い、私を陶酔させるのが悪い。なっていない聖職者どもだが、ピクリとも動かないと後ろめたさがじわじわ湧いてしまう。
「マリ、アンナ……?」
弔歌を紡いだ美声に逆らって、私を呼ぶ声がした。階下へ逃げる悲鳴と比べて頼りない声なのに、妙に耳に馴染む。広場から黒尽くめの一人が階段を駆け上って、息も絶え絶えに声を上げていた。
喪服の女だ。黒いヴェールで表情を隠した女が、肩で息をしながら、私の前に立つ。その後に続き、他の喪服も幾人か着いて来ていた。
馴染みの顔を、幾つか見つけた。
「ああ、あなた、なの?」ヴェールが払われる。
「……母上?」
私の母、モーティシアだった。母上の手から、ヴェールがするりと逃げる。
「辛気臭い身なりだな。それに、父上、ニッサッサも」息を切らせて続々と集まる家族その他に、私は残心を解いた。「これは、何の催しだ? 気付けばこんな箱に閉じ込められて……よもや父上共々、共謀したのではあるまいな? 全く家族して皆、人が悪い。バルバロスの名が泣く……」
不揃いの呼吸だけが答えだった。
企みがバレた気まずさ。笑ってごまかす一幕。苦し紛れの賑やかし。あるいは挑発に乗って、尻を叩いてくれても構わなかった。知らない風景で見つけた、最も良く知る顔ぶれに、私は無意識に安心を期待した。
私の期待が尽く裏切られ、各々の表情は神妙な不安で固まっている。
「……お母様、本当に、いかがなさいましたの?」
母上は、一日の内に少しやつれたように見える。血色は悪いが目は潤み、今にも倒れてしまいそうな震える足取りで、私に近寄った。だが、それでも確かに母上は膝を折らず、真っ直ぐ立っている。私より目線を少し下にして。私より背が高い母上が。
「お母様、背が縮みましたか? 私より低くなって」
痛ましくて、見ていられない。真剣みに気圧されて、目が泳ぐ。自分の格好に目が留まる。全身を覆う白のワンピースに似た装束で、足元の箱には花が詰めてある。まるで棺桶のようだ。
「葬式、か? ……私の? なあ、母上」
冗談が過ぎるぞ。途端に母上の目に昂った感情が溢れ、流れる。ひし、と母上は私を抱き締めた。顔を肩に、手を後頭と背に回し、私に縋るような抱擁で、息が苦しくなる。
「……良かっ、たぁ――」
毅然とした母上らしくない、湿った声だった。消え入る一言をやっと搾り出し、母上は慟哭し、崩れる。それを父上が、私ごと支えるように抱擁する。
「マリアンナが! 我が娘が息を吹き返した!」
葬儀は中止だ! 父上の号令が響き渡るが、聞く耳を持つ者は僅かだった。まさか、本当に私を葬っていたとは。
更に別の殿方が抱擁に加わる。それを見守るニッサッサがハンカチをさめざめと濡らして――。
「いや貴様、何者だ!?」
家族揃って涙に頬を濡らす不可解よりも、さも自然に混ざった男の謎が上回る。精悍な顔つきで、父上ほどではないが頑強そうな体躯をしている。典型的な公国男子といった風貌だ。
不審者は困惑し、たじろいだ。困っているのはこちらの方だ。
「離れろ下衆が! 父上、ニッサッサ! 何が悲しいか知らんが、それどころではない! この曲者を母上から離さねば!」
「よ、よせよ……マリアンナ」男に狼狽が浮かぶ。「こんなときに、悪い冗談だって」
「悪い冗談は貴様の方だ! ……そうだ、メゼキエル!」頼りない兄の姿を探す。「メゼキエルはどこだ!? バルバロスの誇り、今を逃していつ示す!?」
「……何を言っているのです、マリアンナ?」
母上の腕が緩み、正面で顔を向き合わせる。今にも決壊しそうな何かを、細い糸で繋ぎ留める、切実に祈るような瞳が揺れている。母上は私が粗相をすれば怒る。そんな母上を悲しませたのが、私の胸を締めつける。だが、何を慰めれば良いのか、わからない。
「目の前にいるであろう」
頭上から父上の声。腑に落ちない私に、あの厳格な父上が、恐る恐る付け加える。
「兄の顔を忘れたか」
何を馬鹿な。二つしか違わない兄が、三日はおろか一日も経たずに括目に値するものか。
『ラァ、緊急措置』
初めて聞く声、しかし聞き覚えのあるのが、恐ろしく近くに聞こえる。目を巡らせる。家族の顔ぶれに、メゼキエルと紹介された知らない男だけだ。
頭の中で声がする。
『当該有機体の続合に関する映像記憶素子を検索。直近の“兄”“メゼキエル”に該当する記憶を疑似人格アルゴリズムへ投影』
『警告。稼働中アルゴリズムへの未習情報入力は予期せぬ挙動を誘発する危険あり』
『原生知性体に疑念を抱かせると厄介よ。他に対処法ある?』
「何者だ! 隠れて何を企んでいる! 出て来い!」
家族の抱擁の中で身じろぎ、意味不明な会話をする二人組を探す。しかし、心配の色を濃くした母上、父上、謎の男が声をかけ、少し離れたところにニッサッサしかいない。頭の中の声は途切れない。
「つ、疲れたのね、マリアンナ」そうよね、当然だわ。うんうんと自分に言い聞かせるように、母上は優しく努めた。「ニッサッサ、客間を手配して」
ニッサッサが恭しく承り、急いで階段を降りる。
誰も聞こえないのか、あの声が。
『了解。フラッシュバック措置開始。該当する記憶素子を連結』
脳髄が雷を発したような衝撃に視界が揺らぐ。イメージが火花のように明滅する。強烈な頭痛に意識を持って行かれる。逃れられない苦痛に呻き、急に仰け反り暴れる私を、家族が総出で取り押さえる。しきりに私を呼ぶ。
イメージはエピソードを欠いていた。ただ一つ、兄上、メゼキエルの顔が連珠となる。青二才の背が伸び、肉付きが良くなり、顎髭を整えて気取りながらも飾らない顔立ちになるまで、ものの数瞬だ。
その顔立ちは現在の、謎の男と重なった。
苦痛が引く。強張った体から力が抜け、足腰も立たなくなった。幾ら息を繰り返しても呼吸ができない。脂汗をかき、腰の抜けた私を支えてくれたのは、謎の男の胸板だった。
「マリアンナ、聞こえるか?」
名を呼ぶ知らない声が、今は信じられないほど耳に馴染む。
「兄……上」
逆さまに見下ろす兄上の顔が遠くなる。どうして忘れていたのだろう。兄は今年で一八、私はもう一六歳だった。
私の意識は闇の底に落ちた。
◯
段上の異変に振り返る暇も許されない。ニッサッサが、立ち尽くす参列者の一人の前に礼をする。
「王太子殿下! 火急の用ですので手短に! おひい様……マリアンナ公女殿下が息を吹き返されました! 王宮の客間をお借りしますが構いませんね!?」
王太子ミズラフィルは呆然とも平然ともつかない表情で、階段上を望んでいる。返事を待たず、ニッサッサは担架と医者の手配を参列者に求め走る。
当のミズラフィルよりも先に、泣き腫らした顔を上げて、隣の女が尋ね縋った。
「本当、ですか? マリーお姉様はご無事だったんですね!? どのようなご様子ですか!? 私も何かお手伝いを……!」
舌を打つ。侍女と縁遠い悪態をつき、縋る手を払ったニッサッサは、表情をしかめた。
「妃殿下、事は一刻を争います。口出し無用です。それとも、足止めをお望みで? おひい様が生きていて何か不都合でも?」
「そんなことありません!」
聞くに不慣れな大声で王太子妃が吠え立てる。田舎で評判の控え目な乙女といった風体だが、禁句を口走ったことは許せないと言わんばかりの、なけなしの敵意を晒した。ニッサッサは気にも留めない。「ではもう良いですね。失礼します」
足早に離れ、ニッサッサが人手を募る。王太子妃は離れる背中から目を離し、マリーがいる段上を仰ぎ、胸に手を当て、跪くようにその場で丸まった。本当に良かった。誰にも聞こえない声で、呟いた。
ミズラフィルは、微動だにしなかった。
◯