007
降って湧いた暇を私室で過ごすことにした。書斎にあった剣姫奇譚は半ば私物と化して、机に設えた本棚に収めてある。飽きずに手に取り、紐解く。
物語の場面は、アレクサンドラが幻惑を操る魔物と対峙したところだ。幻惑に紛れた魔物は、アレクサンドラをその爪牙にかける。傷つき、膝を折る剣姫。剣を地に突き立て、寄りかかってやっと体を起こしているような重傷だ。鏡のような剣に、額から血を流す己の死相を見る。
もはやこれまでと覚悟した。そのとき、剣の鏡面に映る魔物が、たった一匹だと気づく。幻惑を破る方法を窮地に得て、聖剣が閃く。窮地を脱すると共に気を失ったアレクサンドラだが、従者カリストの献身的な手当ての甲斐あって、生死の境から見事生還するのだった。
「……幻惑、額、血」
本を閉じる。こちらを向く姿見を見る。
殿下がお越しになった日、私を悩ませた、あの幻が蘇る。
殿下は奇跡をお遣いになる類希なるお方だ。私に施してくださった奇跡は治癒であったが、他に幻惑などの奇跡をお持ちでもおかしくはない。私は何故、殿下に誑かされたと思わなかったのだろう。
私は、この一節にそれほど感化されて――などいない。
『緊急事態――緊急事態――』
急に椅子を取られて、腰を打った。
視界が暗転する。無機的な声を乗せて、不安を煽るけたたましい騒音が繰り返し流れる。辺りを見回しても音の出所はわからない。ただ一面を塗り潰す黒だけが広がる。部屋はおろか、直前まで座っていた椅子も綺麗に消えている。
「何だ、これは……!? 襲撃か!?」
『もー、今度は何よぅ!? ラァ、報告!』
二人目の知らない声が暗闇に反響する。
『当該有機体が極めて狭い閉所に梱包された模様。当該有機体は現在、原生知性体集団により移送されていると推測されます』
『現在進行中の行動を原生文化的に解釈して!』
『葬送儀礼と予想されます』
『まずは防腐処理でしょお!? 告別式もっしてっないっじゃーんっ! どんだけ野蛮よ、この惑星!?』
全く意図の不明な会話ばかりが頭上を飛び交う。
「何だ貴様らは!? ここはどこだ!? 私をどうするつもりだ!?」
私の疑問は暗闇に吸い込まれていくだけだった。伏せても伏せた感覚はなく、立っても立ったかどうか覚束ない。走ろうと掴もうと、全ては虚空。方向もない無秩序な闇の牢に囚われているようだ。
『疑似人格アルゴリズムの経過は!?』
『惑星公転周期換算で十回相当の圧縮学習完了』
『予定の約六十パーセント……あー』口惜しそうな声だ。『っもう! 構築プロセスを一時中断! 疑似人格アルゴリズム起動準備! 一時的に自律行動権を貸与し、状況をリアルタイムで観測するわ!』
『了解。疑似人格アルゴリズムと当該有機体を接続。起動シークエンスに移行します。起動まで三、二、一……』
「私の問いに!」
『ゼロ』
答えろ! 痺れを切らした言葉の出る幕はなかった。カウントゼロで私が急降下する。聞くに堪えない叫び声が噴出する。無限の暗がりに光芒の道標が一筋、また一筋と増えていく。暗闇と光の筒を落下する。落下――先に地面がある。待ったなしで迫る結末が本能を震え上がらせる。
光の底を抜ける。
死――!
PUSEUDO-PERSONALITY ALGORITHM VER.β ACTIVATE.■