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キャトルミューティ令嬢の復活  作者: ゴッカー
5/14

005

 翌朝、屋敷の庭に剣術の師弟が並ぶ。

 師匠グニールと弟子、私の兄メゼキエル。そして、私。道着は兄上のお下がりだ。だが、私は新品に袖を通したような清々しさを覚えて立っていた。

 師匠の手にする羊皮紙は、大公様の推薦状である。師匠はしきりに書状と私の得意満面を見比べている。兄上はうんざりした横目を私に寄越した。

 師匠がこめかみを掻く。

「坊ちゃんと同じメニューだからね。音を上げんじゃあないよ」

 ぞんざいな言い草だった。いかにも、大公様のご命令なので、と言いたげだ。

 折角の機会を、ヘソを曲げて無駄にする愚か者ではない。

「はい、師匠!」

「音を上げなくても飽きたらお終いだもんな、飽き性」

 兄上の嫌味だ。

「今に見ていろ、メゼキエル」視線は師匠を仰ぎ、苛立ちは兄に向けた。「私は剣姫になる」

 剣姫のように語気を強めた私に兄上は面食らったようだが、すぐさま鼻で笑った。

「兄上と呼ぶんだ。剣姫じゃないマリアンナ」

「わかった、兄上。私が弱い内は従おう」

「言ってろ」

 パン、と師匠が手を打ち、私たちの背筋が伸びる。くたびれた空気が急速に張り詰める。師匠は木剣を私へ差し出した。やっと始まると思ったのも束の間、その場に座れと言われた。腑に落ちないが、仮にも師匠なので従うのが弟子である。

「坊ちゃんもやったことだから、嬢ちゃんにもやらせる」

 師匠が私の前にしゃがみ、木剣を立てる。構えですらない。

「嬢ちゃん、そのままこれに一発、打ってみろ」

 言われたままをやる。カポコン、と文字通り腰の入っていない音が鳴る。

「今度は立ってやってみな。踏み込みはなし。足は肩幅に広げて」

 言われたままをやる。カンッ、といくらか様になった音だ。手応えも格段に良くなっている。

「違いがわかるか」

 頷く私に師匠も頷き返す。

「嬢ちゃんは、足腰を鍛える前後を疑似的に体験した。鍛える前に剣を振って腕は上がりそうか?」

 ははん、と心で呟く。

「モチベーションしか上がらんな。腕は上がらん」

 師匠は目を丸め、顎に手を当てる。私を測る目に、興をほのめかす。

「嬢ちゃんにゃ、ヒノキの棒も百年早え。まずは体の基礎を作る」

「承知した。剣を握る許しを得るまで精進する」

「話が早えや」カラッと唸る師匠。「どっかのボンボンと違って」

「……へえ~」

 後ろで暇をしているメゼキエルを見る。

「な、何だよ」

「堪え性のない殿方はオオカミですわ~」とは師匠。

「汚らわしいですわ~」とは私。

 私と師匠は拳を作って小突き合った。

「お前ら覚えてろよ」とは兄上。

 私が覚えていたのは、私が兄上より弱い内は、メゼキエルと呼ばないという約束くらいのものだった。


 三年後。屋敷の庭。

「痛っ」

 男子慄く荒れ地に春、庭師の汗水にからっ風、踏みしだいた下草の香りは青く。蹴り上げた土、削れる木剣二振り、香ばしく。心のよすがに抱いた記憶は、幼く無垢に、温かい。

 バルバロス公女マリアンナが、初めてイダリス王太子のお目にかかった日の思い出。引き合いに出されると、さすがの私も、強く出られなくなる語り草だ。

 十歳になった私は、剣の稽古に専心していた。木剣をカンカンと交える。受け、流し、翻し、相手の剣を脇に挟んで奪うこともあれば、ボサッと突っ立っているなら蹴りも入れる。実践的な稽古だ。

 兄上に胸を貸す。腕前を見れば当然。だが、よくよく力量の差を比べて見れば、思い上がりだった。

「ち、ちょっと、ちょっとちょっとマリアンナ!? せっ、せめて、型通りに打ってくれないか!?」

東魔境(とうまきょう)でぇ、同じことがぁ、言えようものならなぁ、メゼキエルぅ!」

「あ、あ、兄上とっ、呼べっ!」

 押されっ放しで、よくいなす。兄上と呼ぶに値する受け流しだ。その技に敬意を込めて聞き流そう。

「攻めねば勝てぬぞ、メゼキエルぅ!」

「うおお!? お、お、お、う、お!?」乱打を受ける兄上が、酒の余興に舞うようだ。「師匠様!? グニール様!? な、なな何とか言ってやってよ!」

「手を抜くなマリアンナ。男見せろー、坊ちゃん」

「そんなぁ~!」

 師匠と仰ぐに値する聞き流しだった。

 糊の効いた練習着は、汗と泥ですっかりクタクタだ。だが、馴染むほどに気分が上がる。木剣が冴え渡る。実戦へ肉薄する冴えだ。今なら、伝説に名高い剣姫アレクサンドラにも肩を並べられる。分不相応な妄想を現実にしたがるのは、幼心の特権だ。

 体が温まってきた頃合いだった。一つ、ここは兄の嘆願を叶えるついでに、大技で腰を抜かせてやろうと私は企んだ。心の中では、アレクサンドラが魔物の群を一撃の下に屠る頁が紐解かれていた。

 大上段から振り下ろす――。

 その大仰な予備動作を、追い詰められた兄が見逃す訳もない。私が木剣を振り下ろすと同時、兄は目を見張るような軽やかさで身を翻し、私の間合いの内に潜る。木剣が私の頭を襲う――しまった。目を瞑るな。太刀筋を見ろ。次に活かせ。

 ここで寸止め。木剣で扇いで前髪の一本でも吹けば、なお見事。

 それが修練の作法なのだが、必死な子供に求めるのは酷な話で、兄は見事に私の額を割って見せたのだ。

 気づけば、対等な目線だった兄を見上げる格好になっている。尻もちをついていた。兄は喜色も束の間、慌てふためく。駆け寄る侍女。場を仕切る師匠ときたら、ここぞとばかりにガハハと笑って「今のが通ると思ったかバカめ」と日頃の恨みを滲ませて罵ってくる。侍女の「言ってる場合ですか!」の剣幕に師匠が委縮する。水を差されたように頭を掻いて、師匠が吐き捨てる。

「処置が済んだら仕切り直し。はい急いで急いで」

「いいえ」侍女がきっぱり異論を立てる。「今日はもうおしまいです」

「んな玉じゃねーでしょ、嬢ちゃんは」

「玉でなくては困ります。綺麗な玉のお肌なのに、嫁入り前の子にもしものことがあったら……」

「嫁入り前ときたかぁ」師匠は半笑いだ。「嬢ちゃん、かれこれ何人斬りだっけか」

 欲しくば勝て! 木剣を構え、師匠が私の口調を真似る。真剣な面持ちが途端に崩れて噴き出す。「売れ残りの縁談も裸足で逃げらぁな」

「あーっ、今の聞きましたか、おひい様……やだ、おひい様!」

 犬も食わぬ喧嘩より、左目にたかる羽虫が気になった。律儀に上から下へ何度もよぎる虫だ。前を払う。眉に触れる。じとりと濡れる感触がした。指先が赤い。虫ではない。血が滴っていたのだ。

 額は、本当に割れていた。

 突如、目映く、絢爛な様相が目に浮かぶ。舞踏会。私は、死んだのか?


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 はっとした私の目の前に、再び血がたかる。

 私は、一本取られたのか? あの腰抜けに。

 私の頭に血が上る。訓練にもかかわらず、血気に中たるような喧嘩っ早さだ。かかる拍車にまた血が滴る。失った血は取るに足らず、だが頭へと過剰に供給される。滴り積もって血が噴いていたかもしれない。

「うわ、わ、ぼ、僕、手ぬぐいを取って来ます!」

 兄上の情けに、私はキレた。

 ハイポジションに束ねた髪が逆立ったときには、私は木剣を握り締め、弾けるように兄へ飛びかかっていた。

 獣のように私が唸る。口の端から泡を噴いていた。しかめっ面で呼吸も忘れて、兄に木剣を打つ。兄は流せず、受けに手一杯らしい。打撃が剣身を伝って、兄の持ち手で暴れる。時々、兄は木剣を取りこぼしそうになる。兄は、自分の得物が自分に歯向かう感覚に戸惑っている様子だった。自分の太刀筋に兄が手を焼いている。たまらなく愉快だ。

 一手、二手と兄は体勢を崩していく。やがて私は兄の木剣を弾き飛ばし、兄に尻もちをつかせてやった。頭を抱えて縮こまる兄。降参、降参と、まるで耳に入らない私の間に「そこまで」と師匠が割って入る。

 水を差された気分だった。よろしい、師匠。もはやこれまで。決別だ。力量差などまるで無視して、妨害に勇んで張り合う。大人の背に隠れて腰を抜かす軟弱に、とどめを刺しにかかった。

「放せぇ!」

「そこまでってんでしょ! じゃじゃ馬!」

 はて、どなたのお話で? じゃじゃ馬? 私? 記憶にございませぬわ。キレはキレでも私は切れ者。切った張ったが生業だとても、私は白を切る。切れっ端の異端児なのだ。

「大人しくしろって!」

「放せ、卑怯者ぉ!」

「そう褒められちゃ、大人になった甲斐があるねえ!」

 ただ、師匠の羽交い絞めに吊るされた出来事は、未だに根に持っている。何しろ切っても切れない腐れ縁なのだ。苦し紛れに、師匠の股座へかかとを見舞った。

 さしもの師匠もくぐもった声を出したが、腰の入っていない一撃は、意表を突くに止まった。

「いつの間に足癖までこんな悪く……!?」

 くぅ、惜しいですわ、と侍女は隠れて拳をグッと握った。惜しくてはいけない。奥の手を失くした私には悪あがきだけが残っていた。

「師匠は卑怯で良いかもしれん! だが、兄上が剣の作法も知らんでは一族の恥だ! 私が叩きこんでやる! バルバロスが正統をな!」

幼姓(おさなかばね)も返上しねえで、見栄を張るんじゃあないよ! マリアンナ・おてんば・インヴァゾーラ!」師匠はインヴァゾーラを強調した。「それに、お前もね! 俺の仕切り直しをね! 無視してんでしょーが!」

 さしもの切れ者をして、ぐうの音も切り返せない殺し文句である。大人と子供の差は、兄妹のそれのようには覆せない。首根を掴まれたネコよろしく、侍女に身柄を引き渡されては、仕切り直しは避けがたかった。

 カメのようになっていた兄が、恐る恐る首を出す。嵐が去ったと深く息を吐くのも束の間、師匠がその頭より高い尻を蹴り上げる。今度は括り罠に吊り上げられたシカのように、兄の背が伸びる。

「坊ちゃんもよお、いつまでビビッてんの。フェイントに痛ぇとか抜かしなさんな。痛がるならまず、当たってからにしな」

「でも」

「でもも妹が怖いもねぇってんでしょ。心底同情すっけどね」

「おい」

「おいも兄貴の肩を持つなもねえってんでしょ。マリアンナの嬢ちゃんは、調子に乗って力任せに剣を叩く。まずその悪い癖を直しな」

 私は「まだちゃんとできてたのに」と不貞腐れて、顔の汗と血を袖で拭う。

「いけません。汚れが傷に障りますわ」世話焼きの侍女が私の顔を手ぬぐいで撫でた。「嫌だわ。お美しいかんばせに。……本当、じっとしてたらお美しいのに」

「おい、漏れてるぞ。本音」不敬極まる。

「漏れているのは、おひい様の額からですわ。ほら、こんなに」

 今しがた撫でた手ぬぐいは、布地が沈むほど血を吸っていた。こびりついた白い欠片、煮凝りのような何かが載る。

「……え」

 おびただしい血が、パシャ、とダンスホールを染め上げた。鈍麻な浮遊感に襲われ、空が青い。地面が冷たい。寒い。

 寂しい。

 こんな気持ちにさせられるなら、いっそ殺してくれた方が良かった。


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 侍女の手を払う。

 今になって息が切れる。動悸も激しい。目が泳ぐ。汗に濡れた練習着が、異様に冷たくまとわりついた。足元に血溜まりを探す。ダンスホールじゃない、芝だ。どうして、そんなものを探そうと思ったのだろう。人工の床も血も、ここにあるはずもないのに。

 妄想に耽り過ぎた。

 それにしても、真に迫る。何の脈絡もないのに。

 何者かが誑かしているという漠然とした感覚が残る。辺りを探る。

「おひい様?」

 私を気にかけるような侍女の声音も、今やゾッとしなかった。侍女の目より先に、手ぬぐいを見ていた。赤茶けて、布目模様に乾いた血が、ほんの小さな染みを作っている。かすり傷だ。

「いかがなさいました? お顔色が」

 気にかける声音に気後れが薄らいだ。侍女の顔をそろそろと窺う。

 いつもの、私に手を焼く女の顔が、心配そうにしている。

 どっと緊張が解けて、気づけば、私は侍女の柔らかなエプロンに身を埋めるように抱き着いていた。

「あらあら、まあまあ、びっくりなさったんですね? お珍しい、おひい様に限って……」

 ふと、頭を撫でる侍女の手が止まる。何事かとその視線の先をなぞる。木陰、見慣れない人影。辺りを探ったときには、誰も見かけなかったはずだ。気のせいか。で済ますにはどうも引っ掛かる。しかし、考えても仕方がないことだった。

 大人に混じって子供が二人。私は、腹が立つくらいに生っ白いチビの方に目をつけた。

 目に入った汗を袖で拭う。洟をすする。胸の息を入れ替える。全力を注ぐ先を見失ったばかりである。それにも増して、由来不明の動揺は、今の内に退治してしまいたい。私は、それを次の模擬戦の相手と思い込んだ。要は憂さ晴らしである。

 侍女の抱擁を振り解き、目元を拭って、白チビの前に出る。

「まり……マリアンナ・インヴァゾーラである!」

 鼻声を整え、勇ましいように名乗りを上る。木剣をその足元に投げ捨てて「臆さぬならば剣を取れ」とけしかけ、「鍛え直してやる」と、自身の木剣を向けたのだ。

「あーあ」と、師匠が聞かない振りをした。

 芝の庭に似つかわしくない、バルバロスの乾いた風が木陰を揺らす。にわかに日差しが強まり、白チビ一行を白日の下に晒す。

 師匠や侍女、チビの取り巻きが青い顔で取り乱す中、万事が些事と顔に書いたような態度の白チビに、初めて血の気が通い、ふわりと私に返事をくれた。

「マリアンナ嬢。ひたむきなそなたを好ましく思うよ」

 春風にさざめく梢が、嫌に騒がしい。空耳か。この場の誰もがそう思った。特に私は自惚れを戒める。軽く揉んでやろうと挑発した相手から、好意を告げられるなど。

 冴えた木剣が、急に頼りなく感じた。

 不覚を取った。いつしか白チビは私の目の前に、ゆらゆらと歩み出ていた。木剣を跨いで、丸腰で。自信か、虚勢か。まるで素人の歩法だ。慄く取り巻きの言う、おやめください。とは、どちらの意味か。量りかねている私を気に留めず、チビはおもむろに跪く。そんな構えを採用する流派など知らない。何だこいつ、底知れない。後ずさった。

 臆した? 私が?

 私は完全に後手に回っていた。剣を握る私の手を冷やりと取るなり、白チビは甲を上向けさせる。赤子の手をひねる、という言い回しが浮かぶ。むしろ白チビの指の方が、赤子の肌触りなのに。

 こんな手に詰められてたまるか。しかし、頑として知らない攻め筋。活路はどこだ。目が泳ぐ。息が苦しい。

「マリアンナ嬢?」

「はい!」

 構えも何もなく、ピシッと背筋が伸びる。私らしく……は、あるが、この私は歴戦の古強者を前にしたときの私だ。やはり私らしくない。

 アメジストが二つ。小癪な目をしている。釘づけの私に、白チビがやや困った様子を見せた。何やら知らない間に一矢報いたのだろうか。白チビは続けた。

「申し遅れたね。私は……」

 春にあって名残雪のような御方だった。

 なるほど、雪が閉ざす時代の内に消え、花よりなお春の訪れを知らしめる。相手の出方を窺うつもりでなければ見落としそうな、微笑にも満たない笑み。目の前から、記憶からすら今にも消えてしまいそうな線の細い男児。ミズラフィル・イヒシィ・イダリスの振る舞いは、既に為政者の片鱗を見せていたのだろう。

 不敬にも私は、大公様へのご挨拶でお越しになった殿下に向かって、無礼千万を働いた。それに対する裏腹な罰に違いない。泥と垢を汗でこねた手の甲に、冬の忘れ形見の雪一片。

 殿下は、口づけなさったのだ。

「ヒュウ」軽薄な師匠の口笛。

 唖然と赤面が庭園に入り乱れる。

 稽古の熱が遅れて、私の頬を巡り、額から赤く、二枚貝が潮を噴くように血が出た。

「いけない、血が」

 殿下がぐいぐいと、私の目と鼻の先にアメジスト二つをお近づけになる。水晶を被せた瞳。宝石のカット――虹彩の微動さえ察せる近さ。私の浴びた光を集めていると、わかる距離。私にお構いなしで、私のサイドヘアに指を通される。その親指で額にお触れになると「痛いの痛いの飛んでいけ」のおまじないをかけてくださった。

 殿下のお手が、その瞬間だけ、ほのかに温かい。

「ひょわっちょ」なる奇声を出したのが、自分とは信じがたい。

「これで良し」

 二度目の微笑みに、眉間を貫かれた気がした。貫くままに私の意識を刈る。刈った意識が遥か後方へ直線を描き、遠ざかる。春風に誘われた花弁のよう。実際、おあつらえ向きに風が吹いていたし、花も舞っていた。花弁が二人の間を冷やかして、くるんと宙返りした。

 淡い桃色の花弁だ。私の翻弄される様を愚弄する色合いに見える。訳もわからず、何を小癪な、と息巻いて花弁を吹き払う。荒く息を吸った拍子だった。鼻穴にその花弁が、すぽっと入る。

「おや」殿下は、滑稽が過ぎて呆気にとられた。

「……はひっ!? っふ」

 クシュン!! ブエクシュ!! エッークシュン!! あぇー……ズズッ。……でろん。

 頭の中身が丸まま鼻を通ったようだ。殿下のご尊顔が私の涎と洟を受け止めた。殿下の呼吸が泡と提灯を作る。前後不覚となられ、辺りを探るようにお手が惑われた。周囲の阿鼻叫喚などどこ吹く風で、私の鼻から逃げおおせた花弁がまた、人知れず宙返りをしていたことだろう。

「おひい様、おひい様、何を呆けてなさいます! 疾くお詫びなさいませ!」

 耳打つ侍女の助言すら、遠くのことのようだ。妖術で私を翻弄した卑怯者に一矢報いた。私は、にへら、と満悦だった。

 何ですか、そのお顔は。事と次第によって下る沙汰を想像し、侍女は慌てふためいた。血の気すら引いている。しかし、変な顔などしていない。お付き方にご尊顔を拭われる殿下のもちもち百面相に比べれば。今、殿下は無様を晒されている。まあ、それで免じてやろう。

 されるがままに身なりを整える殿下。その前に出て、両手を腰に当て、胸を張る。顎を上げ、殿下を見下して言う。

「貴様」

「き、きさっ!?」

 追い縋る侍女から、卒倒寸前の声がする。構わない。

「剣も握らず、このマリアンナ・インヴァゾーラの前に立ったこと、褒めて遣わす。今日のところは手打ちにしてやる。出直して来い。まず、剣とは持って振るう物と知れ。常識知らずが、同じ土俵で戦えると思うな」

 卒倒で地に伏せた者の気配がする。お付きの一人が、殿下の顔を拭って重くなったナプキンを落とす。兄上は私に悪気はないと青い顔で弁護している。師匠は顔を背けて肩を震わす。

 構わない。構わないのは殿下も同じらしい。

「わかった。そうするよ」

 懐からご自分のナプキンを出される。

 殿下と目が合う。また小癪なアメジストだ。この目に見られると、精神の支柱がコテンパンにされる。

 あっと言う間に、間合いの内だ。見下す姿勢を崩すまいと意地を張る。が、よろめいてしまった。改めて、その背の低さに覗きこまれた。

「な、何だ」

 何か言え。と言い切るのも許されなかった。口が、否、鼻がおもむろに布で塞がれる。

「チーンして」

 真顔でおっしゃるものだから、言われるがままに鼻をかむ。一緒に毒気が抜かれた。毒をナプキンに包み、懐に戻し、「では、風邪を召さないで」と会釈して去る殿下。その背中を慌てて、お付き方が追う。

 何故だか急に、とても恥ずかしいことをしている気になった。折角冷えた頭がまた熱に苛まれる。手打ちのはずが一杯食わされてしまった。

「ぼさっとしててよろしいんで、坊っちゃん?」兄上の生返事を受けて、師匠は続けた。「ミズラフィル殿下が、お家の不名誉をお持ち帰りですぞぉ」

 妹ではなく何故僕が。疑問を抱く余裕などなく、兄上は弾かれたように殿下の後を追った。

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