004
母上の怒声が執務室の梁を揺らし、煤を落とす。妻の事情を知らない父上は、予定外の私の訪問を歓迎してくれた。席を立ち、片膝を折って私を抱擁で受け入れる。執務中は大公様と呼べ。厳かながら笑みを浮かべる大公様の注意に従う。
大公様の前に、剣姫奇譚の表紙を直面させた。
「大公様、私も兄上と剣術習いたい」
「習いたいです」
細かい。父上は並ぶ者のいない大男なので、相対的に世の中の全てが細かく見えるのだ。執務机にボトルシップを飾っている。縦置きのボトルは初めて見た。
「習いとうございます」
「ならん。今日は読み書きだろう」
色を付けてくれたのに、にべもない。続く「モーティシアはどうした」の問い。読み書きの教師は母上が担っている。私の嘘で怒り狂う母上を想像し、身震いした。今ならまだ、怒りの浅い内に引き返せるのではないか。
何の成果もなしで引き下がれるものか。
「ではこうしましょう。私が諦めそうな試練をください。乗り越えれば有用と示せるような条件なら尚良いかと」
ふむ、と四角い顔にたくわえた顎髭を撫でて、大公様が思案する。バルバロス公国の為政者の顔だ。悪事でもない限り、一方的にダメだと告げるよりも、難しい課題を挙げてその達成を求める。反感を抑えつつ民を導く施政には便利な方便だ。
大公様は私を値踏みし、うんうんと確かめるように頷いた。
「その意気や良し。なら、これでどうだ」
おもむろに大公様が立ち上がる。恰幅の良さは屋敷で一番だ。手の届く距離で立たれると、見上げるような巨体に圧倒される。腰に手を当てて胸を張られては、その威圧も一塩に感じる。顔を追って見上げるにつれ、よろけて後ろに下がってしまう。
「私を倒して見せろ」
たっぷり威嚇の格好を整えて言うのは卑怯だと思う。私は冷静だから良いものを。
「……それだけ?」大雑把だな。
「それだけですか?」
細かいな。「それだけでよろしいのですか?」
「言うだけなら簡単だ。だが、やってみせるのはどうだ。考えてみろ」きょとんとする私の目を見て大公様は言い放つ。「お前でも手加減はしてやれん」
確かに、軍人気質の大公様が本気となれば、私に勝ち目はない。しかし、かと言って諦めて欲しくはない、とも大公様は言う。
「限界は決めるな。当たるまでやれ。然る後にこそ限界を知れ」
なるほど、金言だ。
「承知しました大公様!」
丁度良い位置にあったので、私の頭突きは大公様の股座を抉った。「ふぐぉ!?」意図せず股下に頭が滑って前のめりになり、慌ててバランスを取る。体を起こす。後頭部が股座を追撃する。「ボほおぉ!?」大公様の情けない声は初めて聞いた。
患部を押さえて、大公様がウサギのように跳ねる。それを尻目に、私は空の執務机に回る。机にある物を物色する。ボトルシップでは角が立つ。葦ペンやペン立て、インク壺を撒けば受け流される。ハサミを通すのはやりすぎだ。とかく、いざとなって欲しい物は手元にない。
「ふ、不意打ちッとはッ、卑怯なッ!?」
「常在戦場。耄碌したな、父上」
ふと、右手のブレスレットに目が留まった。ふんだんなビーズに糸を通した代物だ。
「どこで覚えた、その言葉、ぁ!?」
私は腕輪の紐をハサミで切り、大公様の足元にビーズを撒いた。ぴょんぴょん跳ねる足元に玉が滑る。靴底と床の間をビーズが転がる。突如としてバランスを失った大公様は狼狽える内に、ズッテーン! と盛大に背中から倒れてしまう。
その隙に私は執務机を踏み越える。背中の痛みに悶える大公様の胸に飛びこむ。胸を圧迫されてむせる大公様に跨り、その喉に剣姫奇譚の角を軽く当てた。
「バルバロス大公に二言はなかろう、父上?」
大公様が総毛を逆立てる。目を見開き、歯を食い縛り、顔を赤くする。まずい、面目まで潰してしまったか。
かと思えば、いきなり破顔して、大公様は笑いを上げた。「見事」と一言、私の髪をくしゃくしゃに撫で、軽々と抱き上げて、脇に下ろす。
「まるで躊躇がない。大した肝だ」背中をさすりながら、大公様が上体を起こす。「メゼキエルにも、良い刺激になるだろう」
「父上、それでは!」
緊張の解けた声音に、私の期待が逸る。
「ああ」頷く大公様。「グニールの下での鍛錬を許――」
「許しませんからねぇ!」
ヒステリックに襟首を掴まれて、私はネコのように宙ぶらりんになった。恐る恐る声の方に首を回すと「は、母上」が目を血走らせ、鼻息荒く唸っている。
「乗馬鞭です! 理由はおわかりなさいまして!? マリアンナ!」
皮肉っぽい言い回しで、尻がヒュンとなる。咄嗟に尻を両手で隠す。ミミズ腫れを先取りするような心地が襲う。
「は、母上! 鞭は後生です! 後生でございますから!」
一縷の望みを目に乗せて父上に助けを求める。床に散らばったビーズを拾う父上と目が合う。が、すぐに外された。
「案ずるな。約束は守る。モーティシア、執務室を散らかした分も任せたぞ」
「は、薄情な! 新しいボトルシップは避けたではありませんか!」
尻の守りを惜しみながら、苦し紛れに机の上を指す。
「なっ、このバカ!」
父上の肩がビクリと上がる。母上の矛先が揺らぐ気配がした。
「あなた!」父上が一回り縮んだ。「性懲りもなく時間を無駄にして!」
「せ、政務に支障はない!」
「そういうことじゃありません! 時間のかかる余暇はほどほどにと、あれほど……!」
夫婦喧嘩に気取られている内に、母上の拘束から逃れる術を探さなければ。何とはなしに、まず自分の指した先が目に入る。
「あっ……」
縦置きのボトルシップが倒れて、転がっていた。重心が偏っているためか、ころん……ころん……とじれったい転がり方をしている。机を踏み越えた拍子に裾か何かを引っかけてしまったに違いない。
父上は新品の危機に気付かない。母上も言わずもがな。
「お二人とも……」
夫婦が「お前は黙ってなさい!」と声を揃える。口喧嘩の内に、ボトルシップはそろそろと忍び足で、崖っぷちに転がって行く。止まれ、止まれ。口喧嘩の流れは漁夫の利を得るのにうってつけだ。だが、物が割れてしまっては、二人に正気に戻られては、私の尻の危機である。念じ、念を実体化し、ボトルを止める。本気でそう信じ、止まれと念じる。
なけなしの勢いが衰えたとき、一念が天に通じた気さえした。
(戻れ……戻れ……!)だが。「ああっ」
ボトルは崖から足を滑らせるように落ちる。目で追う。呆気なく床に激突する瞬間を見ていられない。目を瞑る直前、私の目にしたボトルは白いドレスの女性に見えた。女性の頭が床に届き、表面が平らになる瞬間を捉える。
PAUSE PROGRESS
NOISE DETERCTION......LAST STORAGE ELEMENTS
THE LAST 1% OF PROGRESS DELETED.
STORAGE ELEMENTS NETWORK MODIFIED.
RESTART PROGRESS■
ガシャン! ボトルが割れる。中に建造された帆船のミニチュアがガラスの岩礁に難破する。口喧嘩が止む。
「……私じゃないぞ」
私が割ったんじゃないぞ。あの女は私じゃないぞ。あの女? 何気ない一言が空ろと奇妙に混ざり合い、どろりとした喉越しを残す。
沈黙の後、夫婦が目礼し、頷き合う。
「モーティシア、後で話そう」
「ええ、あなた」
それでも父親か。叫び空しく、私は母と仕置き部屋に閉じこもる。空気を切る鞭の音の後、今度は私の悲鳴が屋敷を貫いた。剣姫になれば、二度とこんな辱めに屈しない精神を得られるだろうか。




