003
まだ何者でもない指が、本棚に並ぶタイトルを左から右へ流していく。読んだ、読めない、何度も読んだ、もう読む歳じゃない、つまらなさそう、難しそう……。棚から飛び出た本の角にビーズのブレスレットが引っ掛かって、図らずも一冊の本の前に指が止まった。
「ばっちい」
思わず声に出るほど古びた装丁だった。何者でもない指は、これまで何度もこのタイトルを通り過ぎていた。しかし、今日に限って気になる。紐解いたところを見たことがない。後ろ向きでも、興味が湧くには充分な理由だった。
期待せずに開いた。偶然当たったページの挿絵に、私は息を呑んだ。目が熱くなる。
白黒の線画が鮮やかな筆致で描かれている。女剣士の姿絵だ。一振りの剣を携え、獅子に薔薇を散りばめたような鎧を纏う。全身に凛とした筋の通った人だ。
文章は、知らない単語たちが渦を巻いている。
「でも」その女の人は。「きれい……かっこいい……!」
「本は決まりましたか」
お母様に促されて、私はその本の表紙を見せる。
「こちらをお読みくださいますか」
差し出した古書を受け取り、お母様は「まあ、剣姫奇譚」と呟いた。“剣姫奇譚”――言葉の響きを心の中で反芻する。お母様はページをパラパラとめくる。
「古語はまだ早いかもしれないけれど」
期待に染まった私の目にお母様の表情は綻んで、読み聞かせの許しをくれた。
剣の道は女人禁制。マリアンナ・インヴァゾーラ七歳、愚昧で済まされない不覚であった。
何しろ、何千年も前に剣を極めた乙女がいたのだ。伝カリストの名で記された本“剣姫奇譚”が伝える名は、アレクサンドラ。
アレクサンドラは神より啓示を得た。啓示に従い、跳梁跋扈の険しい旅路を乗り越える。それは殉教の道だった。生涯の果てに辿り着いた玉座に剣を突き立てる。その偉業を神に捧げ、彼女は聖人として祭り上げられたのだ。
お母様の膝の上で読み聞かせられた物語に、私は心を奪われた。
挿絵の真似をして、剣の持ち手を作り、構える。自分まで強くなった気持ちになる。戦塵を肌に感じる。が、コツンと頭に固いのが当たって現実に戻った。お母様の柔和な拳骨だった。
「何を期待しているか知りませんが」本を閉じ、お母様は悩みを吐露するように言う。「絵空事は鵜呑みにするものじゃありません」
「ですが、お母さ……」いつもの呼び方が急に鼻につく。「母上、カリストは本当にいたのではないか」
「こら! 早速、剣姫になりきって! お口が汚いですよ!」
棘のあるお小言に、私は首を引っ込めた。汚くなんかない。きれいで、かっこいい人の口だ。真っ向からの反論を喉から出す勇気はなく、普段の私はこのまましょげて、母上に言われるがまま、手習いに戻る。
だが、アレクサンドラならどうする。古い革表紙に置いた手を伝い、古の女傑の血が流れて来る。
「話をすり替えてくれるな母上。カリストはいた。これを書いた。それで絵空事と?」
むっとする母上に私は身構えた。息の詰まる数刻を経て、やがて母上は根負けの溜め息をついた。
「アレクサンドラの巡礼をカリストが記録したのは事実です。そこから聖像画を起こしたのですから。ですが、その記録は散逸しました」
「だったら、この本は」
「第三次東征で偶然見つかった物です。カリスト本人の遺文かはわかりません」
“伝”カリスト著とは、そういう意味か。
「本当かどうかは」
「わかりません」
「ならば」笑みがこぼれる。「嘘かどうかもわからないのだな」
「マリアンナ、あなたねえ」
「きゃあ!!」
突然、屁理屈屋が叫んで、母上の腕から逃げようとする。母上は咄嗟に私を抱き止めた。それどころではない。そう、私には、それどころではない。死にもの狂いで母の腕を振り解こうとしなければおかしいのだ。
「こら、大人しくなさい! 話はまだ……!」
「ネズミ!」
私は母上の腰元あたりを指した。途端、叫び合戦は母上の番になる。私を放って立ち上がり、見えない小さな嫌悪害獣に地団太を踏む。瀟洒に着飾った全身をみっともなくまさぐる。幾重にも重なったペチコートの裾が花のようにはためいた。城下に似た舞踊があると聞いた。カンカンと言ったか。
「どこ!? どこなの!?」
「そこ! 後ろ! あ、スカートの中!」
「ひいいっ!」
「母上!」
私は本を手に、書斎の扉の外から言った。
「本当か嘘か、おわかりなさいまして?」
チロ、と舌を出して見せる。唖然とする母上を置いて扉を閉め、私はそそくさと廊下を走り去る。「危のうございますよ、おひい様」侍従たちの心配を丸っと無視するのは爽快だった。
チュウの音も出ない書斎から、間を置いて「マ~リ~ア~ン~ナぁ~!!」の怒声が屋敷中を駆け巡った。




