014
茜に染まる空の彼方に流れる山と丘、夕陽を遮る樹々の立ち姿。自然が影絵を形作る。この光景の中を走る馬車隊は、さながら紙劇場の模型か、走馬燈の結ぶ像か。
ニッサッサに絵札捌きの手解きを受けながら、幾度となく失敗する振りには手を焼いた。母上は姿勢正しくありながら、静かに寝息を立てている。待ちくたびれたのだろう。手を焼いた甲斐がある。
「やっとお休みあそばされたか」
何度も膝に落とした道化の絵札を、種も仕掛けも残さず手から消す。ここからは。
「おひい様もお待ちかねにございますね。ここからは、本題に――」
ニッサッサが私の顔を覗く気配がする。唸っていれば当然だ。心配をかけるような表情をしている自覚もあった。眉間に指を突き、ピン留めした触覚を頼りに、私は意識を集中した。
「難しい顔をされて、いかがなさいました」
「しっ。精神統一だ。しばし待て」
我ながら奇行である。侍女を困らせるのは主人の本意ではないのだが、ニッサッサへの師事が叶った今だからこそ、試しておきたい。横槍が入る前に倣い、私は頭の隅々まで根を這わすように、痛みの痕を求めた。
メゼキエルの成長を知らせた頭痛。メゼキエルに負ける未来を見せた頭痛。夢でも現実でも、つまりは寝ても覚めてもつきまとうあの痛みは、私に知る由のない光景を見せる先触れだった。
もし予知、あるいは天啓が思い違いでなければ。もし痛みを克服できるなら。ミズラフィル殿下の奇跡に肩を並べることだろう。是非とも見極めなければならない。力を使いこなせれば重畳。それが高望みだとしても、あるいはたとえ思い描いた力であろうがなかろうが、いつ来るかも知れない頭痛に怯えるのだけは御免だ。
その点、この馬車の旅路は良い機会である。
ニッサッサから授かるであろう技を先取りできれば、すぐに真偽がわかる。それに、余りの痛みに卒倒しても、ニッサッサが傍にいれば安心だ。動く密室なら邪魔者の心配も要らない。
そもそも私は、一体何をどう試せば良いのか見当もついていない。指まで額に当てて、さも効果てきめんだと信じて疑わず、意識を集めることへの先入観から今のポーズを取っている。白状すると苦肉の策だ。パイの中の陶片を探るように痛みの患部を見つけられるなら簡単だった。まさか、頭に穴を開けて、指でかき回す訳にもいかない。
結果、オカルトに傾倒する公女と、主人の乱心に困惑する侍女の図が完成する。
底無しに「むむむ……」と唸るだけの時間が過ぎていく。
こういうことが起こるのか。エトランゼの内心に、面倒事が増える。
記憶の中の侍女の姿を借りて、疑似人格アルゴリズムの学習経過を注視していた。一度アルゴリズムが自我を得た上で記憶学習を再開すると、本来の記憶にない行動を取る恐れがあるためだ。エトランゼはそれほど危険でもないだろうと高を括っていたが、ラァの助言に従って正解だった。
馬車の中――記憶から再現された疑似空間――のバックヤードで、エトランゼは相棒に尋ねる。
『ラァ、状況は』
『発達速度が驚異的です』
オペレーターが羅列する事態が、エトランゼに暗澹たる思いをもたらした。曰く、強制学習でメゼキエルの顔を覚えさせてから、マリアンナは無意識に未来の記憶にアクセスすることがある。今、彼女は自力でその現象を再現しようとしていた。
『本気で予知能力があると思いこんでるって訳?』
『それも成功間際です』
『嘘でしょ。こんな間抜けな仕草なのに?』
超能力物の空想に中てられた子供が目の前で唸っている。合成音声の抑揚のないトーンが、冗談ではないと否応なく伝えてくる。
『記憶素子ネットワークの遮断により阻止していますが、当機の演算に拮抗する処理速度です。我の強さはオリジナル譲りですね』
『どうする? 最悪、また巻き戻せるけど』
『いえ。学習をやり直したところでアルゴリズムの欲求は変わりません。根本的な解決策は、新しい疑似人格アルゴリズムの構築――』
『それは却下したんですけど』
『でしたら何とか誘導してください』
ですよねー。と、溜め息交じりに相槌を打つ。『疑似人格アルゴリズムが貴官に急接近中です』
「へっ?」
記憶世界の監視の目――ニッサッサの目の前に、マリアンナの額が迫っていた。
「ニッサッサ、すまん」
むむむ……の悶絶が圧縮に圧縮を重ねて、私は茹で上がる寸前だった。
「ぶはぁ」と溜めた「む」を吐き出し、項垂れる。乱れた息を整える。未来の光景が浮かぶどころか、今のことにさえ無防備だった。得られた結果は水に潜って息を止めたのとそう変わらない。濡れていないだけ、水泳に挑戦した者の方が称賛に値する。
息遣いに隠れていた、車輪の音が耳に届く。
待たせた侍女が嫌に静かだ。前屈みのままニッサッサの方へ首を巡らせる。人差し指の中節を下唇に添えて、物思いに耽っているような面持ちでいる。浅黒い肌がエキゾチックな生まれを醸す。いつか、何もしなければ可愛らしいなどと私を評したか。どの口が、と思う。
これ以上、待たせるのも忍びない。いい加減に諦めるかと思ったとき、ニッサッサの背にする車窓から、父上の横顔がよぎる。馬の背に揺られる父上は変わらない厳格さを湛えているが、旅程の大部分で神経を張り詰めてきた疲れが滲んでいる。
休憩中に、泣き言の一つでも漏らしていたか。
「限界は決めるな。当たるまでやれ。然る後にこそ限界を知れ」
金言が蘇る。父上が私に課した、最初の試練。それに臨む際に説いた心構えだ。
私が突き当たったのは、本当に限界だったのか。未来を思い描く手段は、他に考えられないか。
今の私は、形だけ意識を集中してみただけだった。予知はおろか、頭痛もチクリとすら来なかった。夢でもハッキリと鋭い痛みをもたらした、あの頭痛。
(……痛みが先なのか?)
順序を逆転させただけで、確信はない。発想の根拠もない。ないが、それは意識の集中も同じだ。意識が先か、痛みが先か。考えてみれば、能力を操るための手掛かりが何もない以上、出発点は検証する価値がある。
しかし、痛みの調達となると、馬車の中は大いに不都合だ。壁に頭を打ちつければ、音で母上を起こしかねない。自傷行為――それも、頭となると殴るしか手がない。私のことだ。加減はすまい。だが、無意識に加減しているのではと疑念を抱くだろうから、殴りに殴って限界を超えて、大事にしかねない。何よりミズラフィル殿下にご挨拶に伺う前に、ボコボコの顔を晒すのも気が引ける。
一撃で自分の頭を引っ繰り返す他ない。
必要なのは、硬くて、思い切りぶつけても音を殺せるようなもの。この狭い馬車の中で、そんな都合の良いものがあってくれたら良いが。
私の鋭い目は、ニッサッサの頭を見逃さなかった。
座席に膝立ちし、ニッサッサと向き合う。
「ニッサッサ、すまん」
寝耳に水を受けた調子の生返事を待たず、私は両手でニッサッサの頭を掴む。有無を言わせる前に大きく仰け反り、投石機のように一思いに頭突きを食らわせた。反動を殺して集った全衝撃が、頭蓋の中身を掻き回す。
目の中に淀んだ緑の光が満ちる。滲み汚れのような形でチカチカと瞬く、目の中だけにある光に酔いながら、ああ、これもダメか。と、落胆しつつ、ニッサッサへの詫びをどうするべきかに悩む。
ズキン、と頭の芯にイバラを通すとしか言い表せない激痛が貫く。
(待ち――かね、たぞ――!)
無数の火花の中に、私の知らない経験が明滅する。侍女の手捌きを習う場面――は、少ない。代わりに弾けるのは、空より上にある常夜の世界の光景だった。
(何――だ)
それは、あり得ない記憶。この大地に遭難した異星人の記録だ。ある青と緑の天体の近くを通りかかると襲撃を受け、墜ち、運悪く地上の人間を殺してしまう。記憶の断片が、六年後、私の前頭を引き裂くことになる。
悪夢を振り払うつもりで叫び、私は前後不覚の意識を奮い立たせた。ニッサッサの肩を揺さ振り、力任せに押し倒し、エプロンの裏に手を忍ばせる。僅かな未来で盗み見た、中に仕込んだ果物ナイフを抜き、その喉元に刃の腹を沈ませる。
汗がどっとあふれ出す。かすれる声を無理矢理荒げて、ニッサッサの中に潜むそれに言い聞かせんと怒鳴る。
「貴様、何者だ!?」
冷たく見返す瞳の奥に、肩を上下させる私が映っている。




