013
◯
車中で母上娘が語らう裏、というよりも、表で。
父上と兄上は馬を駆り、馬車の護衛に混ざっていた。母上の剣幕に怯える騎馬隊を、父上がなだめて回る。だが、兄上は気もそぞろで、馬の動揺も汲んでやれない有様だった。馬を駆るというよりは、馬の荷だったそうだ。
見かねて父上が馬を寄せる。
「メゼキエル、ちゃんと手綱を握れ」
「……はっ、とと。どう、どう。……申し訳ございません。父上」
と、一時は背筋を伸ばす兄上だが、馬に揺らされるにつれて、また背を丸めてしまう。
妹が家を離れる。元より家督を継ぐのは兄のメゼキエルである。しかし、メゼキエルは妹の尻に敷かれる軟弱で通っている。今日に至っては、虎の威を借る何とやらと、諸侯に噂も広まっていた。
その評価は表舞台に出る前のものである。考えようによっては利用価値も生まれるだろう。気掛かりは、妹のマリアンナ自身のことだった。
師匠と育てた虎は王宮に入る。果たして、マリアンナは虎のままでいられようか。肌に馴染んだ虎の生皮を剥ぐのは、メゼキエルが思うよりも壮絶かもしれない。
「マリアンナを取られるのが不服か」
父上の一言は、聞きようによれば多くを含むように響いた。メゼキエルは、どういう意味か考えあぐねて、間を持たせるように手振りを加えた末に、やっと「いえ」と絞り出す。ただ――。
「ただ、マリアンナの強みは、このような形で発揮されるものでは……」
「それを決めるのは教王猊下と王太子殿下だ。分を弁えろ」
「マリアンナには、人を巻き込んで目的に邁進する才があります。僕にはそれがない。大公の座を閉ざすには惜しいです」
「その座はお前の物だ。疑う余地はない」
きっぱりと言い切るので、メゼキエルは父の顔を見上げる。真っ直ぐ、国へ続く道を見据える大公としての父がそこにいる。
「あれは夢想を信じて疑わん。その気概も粗削りな内はあれの力にもなろうが、純粋に過ぎる。あれが現実に打ちのめされる日も、そう遠くあるまい。それと比べて、貴様は凡夫だ。だが、凡夫なりにあれと対峙し、一本取ったのだろう」
「あれは……誓いに反します。単なる事故です」
「たとえ事故でも、お前は挑んだ。胸を張れ。実を結んだのだ。強者に勝つ術、時として身内を斬る覚悟。生半に踏み入れられん境地だ。凡人には。それは、あれの持って生まれた才覚に勝る、得難い財産だ。凡百が倣う優れたる術を知り、伝えられる者こそ、長の器よ」
「買い被りすぎです、父上」
「あれに引導を渡すのは、お前の他に誰がいる。それとも、お前は余所者に任せたいか」
それとこれとは。と言いかけて窮する。メゼキエルにとって、確かにマリアンナは大公の座に後ろめたさを残さんとする関門だ。婚約を境に、そのわだかまりを克服する機会は、永遠に失われるかもしれない。形のない不安が姿を現すようだった。僕は、手遅れになるのを恐れているのか。
「あれと折り合う手立てを考えないお前ではあるまい。時の流れは放たれた矢のように、容易に取り返せんぞ」
「……はっ」
曇ったメゼキエルの目に、晴れ間が覗いた。
◯
女だらけの車中に、何回目か母上が溜め息を吐く。車中は重い空気が充満している。
「ところで、ニッサッサは」母上に名指され、ビクつく侍女。「どうしてこの馬車に? 家臣の馬車も手配していますけれど」
「それは……」ニッサッサが私の意を窺う視線を寄越す。私は頷いた。「公女殿下たってのご希望でございましたので」
また碌でもない話かと、母上は身構える。ここまで不信感を植えつけたことを自戒しつつ、私は気を取り直して説明する。
「長旅なので、簡単な余興をな」
二拍手でニッサッサに催促する。うえぇ、この流れで、でございますか? 囁くような目の色だ。目上の不機嫌に晒される重圧には、私の上目遣いが効く。口元を握り拳でさり気なく隠すと、薬効が体感で二割増しだ。
ニッサッサが仰け反る。口に手を当て、顔を逸らす。長く溜めた観念の吐息が、重い空気に加わった。
「お目汚し失礼します」
おひい様、お手を。言われるまま、手柄杓を作る。その上に、ニッサッサが手をかざす。くるん、と手首を捻ると、どこからともなく絵札が現れ、一枚摘ままれている。絵札がはらりと手柄杓に乗る。
「さあさお立会い。種も仕掛けもございますけれども」
奇術師に転身した侍女が手の甲と平を合わせる。手を上下に分かれさせると、絵札の滝のできあがり。扇状に絵札を広げるだけのことを滝の落ち様に見せる手腕は見事なものだ。手柄杓に絵札が詰まれる。
「看破なされば金一封」
左腕を水平に上げ、肘から手首まで撫でる。撫でた跡には絵札が並ぶ。
「値千金の妙技をご覧あれ」
並んだ絵札の端一枚を爪弾くと、パタパタパタと波打って、一枚余さず裏返る。手柄杓の絵札束が厚くなる。
感嘆物である。両手が塞がっていなければ、拍手を送るところだ。
母上は露骨に呆れた。
「マリアンナ。こんなことのためにニッサッサの手を煩わせて」
「大公妃殿下、御髪に埃が」
ニッサッサに言われ、あらやだ、と母上が身じろぐ。
「じっとなさってください。私めがお取りいたします」
娘の侍女の言われるままに大人しくする。耳元辺りにそっと触れると、その手にはハートのクイーンの絵札があった。
「取れましたわ」
「あら……」己の髪を触れて、母上は目を丸くして絵札を見る。「一芸も侮れませんこと」
ちょっとでも母上の興味を引けば、ニッサッサの独壇場だった。絵札のデッキ一組分が湧いてポーカー勝負。三人がスペードのロイヤルストレートフラッシュを出して盛り上がる。デッキに戻したカードが正規の一組に戻っていたことにまた盛り上がる。
今度こそ私は称賛の拍手を送った。
「すごいなニッサッサ。私たちにもできるか」
「ええ、勿論ですわ」
「教えてくれ」
「畏まりました。では、基本から」デッキから一枚配られた。
「ほら、母上にも」
「私? 私は……」胸の前に手の平を立てる。「お構いなく」
デッキから飛ばした一枚が、その指の間に挟まった。
「ニッサッサ、あなたねえ」
「畏れながら、この馬車に揺られている間は、ご両名様共々肩書に囚われず、親子としてお触れ合いになるのも一興かと存じます。このような機会、あとどれだけ許されるか」
母上が逡巡し、配られた絵札に目を落とす。色付きの道化が笑っている。私の手札は白黒の道化だ。デッキに二枚きりの絵札のペアは、プレイヤーの差配で如何様にでも身を変えられる。一組の道化は、私と母上に委ねられていた。
「全く」
嘆息の内に翻った母上の手から、道化は消えていた。「おお」私は驚嘆を、ニッサッサは苦味を吐き出すような声に重ねた。悪戯を成功させた母上の笑みは添えた手に隠れ、幾らか若々しく映る。
「金一封……いえ、値千金でしたね」
「……ご息女様に極意を伝授しますので、天引きは、天引きだけは何卒っ……!」
「私にできるのはここまでです。マリアンナができるようになった暁には、私にも教えなさい。車中を共にする間はね。それで手を打ちましょう」
ははーっ、と仰々しく首を垂れるニッサッサに、よろしくな、と私は声をかける。視線が交差する。輝き一つ妖しく、言外の意味を込めて。
やりました。おひい様。
うむ。君に師事する既成事実ができた。
それもこれも。
悪王子ミズラフィルに一泡吹かせるため。
母子とお付きの談笑は、水面下で禍々しく渦巻いている。母上だけが仲間外れだ。




