011
ミズラフィル殿下は得体が知れない。私にとって得体の知れない者なら、正反対なお方なのだろう。だが、それでもお若い。軽々に私を「好ましい」とおっしゃるものだから、お付き方は勝手に盛り上がり、当事者は蚊帳の外のまま、あれよあれよと言う間に発言を解釈されてしまった。
殿下がお帰りになられ、伝令の馬が王都と大公領をせわしなく往来すること数日。大公様の絶叫に、宮殿中が激震する。
衛兵がおっとり刀で執務室へ駆けつけるも、大公様はご無事で一言「公妃をここに」と取り乱して伝えるのみ。
直ちに母上が執務室に参上するや、大公様は有無を言わさず手紙を渡す。
「私の目がおかしいのか? それとも何だ。これは流行りの修辞か?」
いつになく狼狽える大公様を母上はいぶかしみつつ、手紙を広げて読む。
二度目の激震が走る。
庭で師匠に剣の教えを授かる私たちにも、よく届く叫びであった。親の叫びは、屋敷において子供の不始末が原因の大部分を占める。特に私だ。
「嬢ちゃん」師匠の呆れ調子が静けさを破る。「宮殿で棒とか振り回すなっつったろ。今度は何を壊した」
「知らん。私ではない」
「さては、さっき具合悪そうにしたのってよ」
「断じて違う」
師匠の中で既成事実が練り上がって、勝手に頷いている。目配せを受けた兄上がそれに追従する。
「棒が勝手に当たった、は通らないよ、マリアンナ」
こやつら。「可愛い妹を疑うのか兄上。ならば決闘にて神に真実を問おう」
「え」
無罪放免は目に見えていた。事実、父母上の騒ぎは私の粗相とは無縁であった。
殿下より王都への招聘の文が届いたと思えば、私と婚約を結ぶ。と、したためてあったのだ。
もはや不覚を取るまいと気を引き締めていた。だが、ニッサッサから報せを聞いたその日の決闘、もとい稽古は、兄上に木剣を絡め取られ、無防備な喉に一突きされる。一本を許してしまった。今度はちゃんと寸止めだ。
(負け……いや、婚約……?)
一度に起こった色々な出来事が、喉に向けられた切っ先に圧縮されている。その威容に尻込みして、更には膝を折る無様を――何とか堪えた。堪えて溜まった腹の虫がわなわなと肩を震わせた。丁度手近な侍女へぶつける。
「もー、ニッサッサ! 今、大事な決闘だった!」
年端もいかない身の丈を更に幼くしたように、私は拗ねて駄々をこねる。ニッサッサは平謝りするしかない。
模擬戦の作法に則った寸止めだが、私には直撃も良いところだった。
頭痛を代償に見た場面と重なる。私が兄上に負け、あまつさえ膝を屈する。前者はともかく、後者は絶対にあり得ない。仮にも剣姫を志す自負が許さなかった。
「お、おひい様」ニッサッサがペコペコ頭を下げながら「お怒りはごもっともですが、一大事です! 猊下と殿下が直々に、おひい様を婚約者としてご指名なさったんですよ!」と引き下がらない。
私には、最悪な予知が半ば的中したことの方が一大事だ。だが、そのことで文句をつけたところで、私の頭が疑われるだけだ。こちらも何とかその一大事を伝えたい。まともに取り合ってくれそうな文句が浮かばない。言葉にならない言葉が胸に溜まる。苛立ちが募る。地団駄が知らず乱暴になって。
一際強く地面を踏んだとき、ずるり、とブーツの底が剥がれた。
「あっ」嘘のように苛立ちが鎮まる。すかさずしゃがみ、靴裏の見事な有様を認めるや「わー……」と遠い親類との別れ際に似た寂しさが染みてくる。
「おわ、派手にいったね」
「ああ、物に当たってみっともない……」
兄上の声の方を向いた。上に傾く首、兄上がこちらを見下ろす。
私は、兄上を前にして、膝を屈していた。
乾いた風に、熱が連れ去られていく。
「どうかした?」
屈託なく首を傾げる兄上の背負った太陽が眩しく、私は目を伏せた。心配する兄上の声に、耳を塞げないから、心を閉ざした。用済みになったブーツを脱いで、裸足になる。すっくと立ち上がる。
「大公様の御前に参る」
ニッサッサが恭しく応じた。
「おひい様、こちらへ」
「おいおい、マジか」去り際、師匠が引き止めるように声をかける。「おい、ニッサッサ。お前、嘘八百で嬢ちゃんの動揺を誘うように、坊ちゃんに買収されたとかじゃないの?」
「違、い、ま、す! さ、おひい様。俗物は放っておきましょう」
「いや冗談きちぃって。そいつ跳ねっ返りだぜ?」と一笑に付す顔に木剣を返上する。難なく受け止められたので、壊れたブーツをぶつけてやった。
ニッサッサに手を引かれるままついて行く。ついて行くのを追い越して行く。
この決闘の結果に頭を悩ませる兄と師匠の会話が遠退く。いわく、私は確かに棒を振って粗相をしたのだと。殿下の棒を指一本触れずに振って、女の趣味を壊したらしい。
下世話な男どもの話はどうでも良い。重要なのは、予知めいた頭痛もそうだが、殿下がたった一通寄越しただけで被った影響の大きさだ。
「対面で飽き足らず、伝聞だけでこの私に不覚を取らせよって! 魔術師風情が猪口才な!」
語気で胸騒ぎを相殺する。つもりが、逸る心臓が落ち着かない。
報せが真実なら、剣術どころではない。学ぶべき事柄はまるで毛色違いになる。剣術など考える余裕があるかどうか。
あの小僧、ちょっと挑発しただけで大人げない。涼しい顔して、筆一本で私の手から剣を落とそうという腹積もりか。
不意に訪れた師弟関係存続の危機に、ややもすれば汚点を残すことになる。反面、あの名残雪の君に形式上でも見初められた事実が面映ゆい。好敵手として持てる力を惜しまない姿勢に存外、悪い気がしなかった。
倒し甲斐のある異敵を見出した心地とは、このようなものか。
こんな攻め手があるなんて。権力を振りかざすのも憚らない大胆な一手。正直、見下げ果てた性根だ。しかし、あの日のように見下したままでは、私に勝ち筋はない。何と歯がゆい者を相手に選んだものか。率直に言えば、ワクワクしている。
ニッサッサに背中を押され、執務室に入る。大公様――父上の御前に参上した。
「父う――」と声を上げたところで、咄嗟に口を塞ぐ。先客がいた。鎖帷子の覗くシュールコーに、脱いだヘルメットを脇に抱えた男が振り返る。日に焼け、土の化粧を落とさず、大公様の御前に立つ。とすれば、帰還したばかりの伝令であろう。
突然、私が入室したことに面食らう伝令。「この兵站で足りるのか」顎髭をしごく大公様は資料を手に問う。大公様の隣に侍る母上が私の傍に来て、珍しく優しい微笑みを湛えて私の肩に手を置いた。私の静かに待つ意図を察し、伝令はニコッと口端を上げて軽く敬礼し、報告に戻る。伝令は既に見ていないが、私も胸に拳を当てて、軍隊式に敬礼を返した。
机に広げた地図を指し、説明する。
「荒野に遊牧の民がおります。この一帯は一見、悪路がはびこっておりますが、民の案内もあって、今回の編隊でも耐えられるロケーションを発見しました。要望する兵站は、件の民に対する案内の見返りを含みます。ただ、とりわけ武器の祝福か、従軍神官の増員はお急ぎいただきたく」
「よかろう。調査隊に割く兵員……工兵も付ける。ここに監視砦があれば、諸君らも楽だろう」
「そうですね」伝令が思案する。「しかしながら、先住民の禁忌を尋ねてみないことには」
大きく頷く大公様。「我々の目的を明かせば、代わる知恵を授けてくれるやもしれん。兵站は多めに付けよう」
「感謝します」
再び大公様が頷く。覚書をしたため、それを兵士に渡す。
「出立まで間があるな。これをバトラーに渡せ」
渋い顔で覚書を睨む兵士。
「こちらは?」
「当たり年の一本だ。酢にするには惜しい。盛って静養するがよい」
「ハッ。気前が良い大公様の下に仕えて自分は幸せ者であります。ありがたく頂戴つかまつります」
「辛い酒だ。ゴマを擦っても甘くしてやれんぞ。下がれ」
二度目の敬礼をし、私は任務を果たした兵士に道を譲る。執務室を出る直前の兵士は、わざわざ私に向けて踵を鳴らし、正式な敬礼を示してくれた。
大公様への敬礼も終えて扉が閉じると同時に、私は母上を振り切って、挨拶も礼儀も忘れて文をせがんだ。厳格な父上だ。逆鱗に触れようものなら、私に命はない。が、今日まで生き延びた実績がある。それに鬼の説教など、今日の私の気迫の前には赤子のぐずりにも劣る。たじろぐ父上は初めて見たが、どこか安堵のような含みを持って、私に文をくださった。きっと母上も「この子ったら仕方がないですね」と諦めていたに違いない。
聞いた通りの文面がせせらいでいる。聞いた通りで当たり前なのに、奇跡の羅列にさえ見える。無刀で小手を打つような奇跡だ。きっと、父上のようにカリカリ書いたのではなく、サラサラとかスィー……とか、ひょっとしたら、お願いされたペンが自ら喜んで紙上を走ったのかもしれない。
いずれにしても、憎たらしい殿下の文字だ。
「父上」
「公務中だ」
「大公様、この文、私にちょうだい」
この屈辱を忘れないために。
「ください」訂正された。
「ください、ませ」上を行けば文句あるまい。
「公文書だ。ならん。が、これなら良い」
父上は二つ並んだ封蝋の片方を切り分けると、それをくださった。逆三角の聖廟を模った精緻な封印は、イダリス王太子の、つまり今はミズラフィル殿下のものだ。
「ちょっと、あなた」母上にとっては封蝋も畏れ多い。口を挟む母上に、父上は口の前に人差し指を立てた。封蝋を割らないようにまじまじと眺める私を、二人はどのような表情で見守っていただろう。ただ、二人で寄り添っていたのは確かだ。
封蝋は小さく、蝋のうねりや溢れがどうしても不格好だ。殿下が封蝋の形もままならない御人だと思うと、妙に素朴な気安さを覚える。が、やはり紙にしたためた文と比べると見劣りするもので、その不満足が私に知恵を働かせる薬になった。
「父上」
「二度も言わせるな。文はならん」
「いえ、標本箱を。標本箱が欲しい」
またこの子ったら、婦女子に似合わないことを。傍で成り行きを見守る母上が、やれやれと額を押さえていた。大公様の関心は別にあり、この要求はすんなりと通った。
私は、私室の執務机の目に留まる場所に、切り取った封蝋を標本箱の片隅に飾って置いた。まだ一つだけ。しかし、そっちがその気なら、こちらは相手の流儀に則って勝つ。これから私たちは筆で戦うのだ。
先制を許して剣を奪われた。ならば、他の方法を探す。殿下を王宮から誘い出すような美文を送り、そこで仕留める。
綿を詰めた残りの区画。埋めた数だけ勲章になる。ズラリと封蝋が並ぶ様を思い描くと、寂しい箱の賑わいに、思わず悪だくみが顔に出てしまった。
「あらやだ。おひい様も乙女ですわね」
いつの間にか背後に立っていたニッサッサに、微笑ましや、と小馬鹿にされた。
腹が立たしいやら、恥ずかしいやら、やや恥が勝る。有無を言わさず部屋から押し出す。その間も忠実な侍女は、いかな痛痒も感じませぬわオホホとヘラヘラしていて、私は無暗に音を立てて戸を閉じた。
戸に聞き耳を立てる。侍女は離れた。念のため背後を取られないよう、そろそろと執務机に戻る。再び封蝋を眺める。努めて控え目に笑む。いずれ必要になる振る舞いだ。変ではないだろうか。普段は姿勢を確かめるためだけに使う姿見で、額に傷を負って以来の自分の顔をまじまじと観察した。
自分で思うより、悪だくみという感じはしなかった。
姿勢を正す。二拍、手を叩く。
「ニッサッサ」
「はい、おひい様。ニッサッサはここに」
いつの間にか、侍女は斜め後ろに控えている。居て当たり前と居直って、私は居住まいを正した。
「私は剣術が好きだ」
「はい」
「剣姫奇譚が大好きだ」
「承知しておりますわ」
「続けられると思うか」
「遺憾ながら」首を横に振られた。
「……そうかぁ」
背もたれに身を預ける。椅子に沈むように、ずりずりと肩を肘掛けと同じ高さに落とす。
む~……と、背を丸める苦しさにかまけて唸るに任せ、唸りの素になる空気が尽きる。一息に姿勢を戻し、胸一杯に息を吸う。吐いて、楽にする。
「これから私は、王宮で戦う術を修めねばならん。母上の他、その道に通じる方々に師事することだろう。ニッサッサ、君をその中に数えたい」
「私めが、でございますか」
「ならんか」
ニッサッサは私に貼り合うくらい唸った後、悩んだ困ったを溜め息に乗せる。仕方ない、と笑顔に書いて、ふわりとお辞儀する。
私は、頭痛の痕を探るように、額に指を這わせた。




