010
シーツを翻して飛び起きる。鈍い頭痛に眩暈を覚える。眉間を押える。頭の重さに任せて俯くと、前髪を掻き上げる格好でナイトキャップが脱げた。解けて重く下がった黒髪がカーテンに見える。
カーテンの隙間、窓の外が焼け始めていた。朝か。寝ぼけの余韻を剥奪された眼を、じっと手に落とす。剣の柄でこしらえたタコだらけの手。柔らかさの欠片もない手。将来は武運長久に間違いない手。私だけの手だ。
私は、一〇歳のマリアンナ・インヴァゾーラだ。
手を結び、開く。繰り返す。背を伸ばし、腕を前に伸ばす。間合いに違和感はない。
そのまま、ベッドに体を預けて倒れる。高い天蓋だ。届きそうもない。真横に腕を倒し、胸で大きく息を吐いた。
「何て夢だ」
目が覚めると一六まで育っていて、しかも自分の葬式の最中。美人薄命など縁起でもない。死ぬなら、武人の誉れが欲しい。そもそも、死ぬなどまだ御免だ。
何を無気になる。たかが悪夢に。ただの悪夢だ。ただ、真に迫る映像だった。かさぶたを拭い取るように悪夢と暗示する。真実味を薄れさせようとするにつけ、傷を広げてしまう気がした。
悪夢から覚めて気が緩んだのか、うとうとしていた。
ノックが聞こえた。
火のような日は、すっかり白んでいた。ナイトキャップの用心空しく、髪に癖がついている。ノックが再び。慌てて手櫛を通し、ピョンと跳ねる毛並みに構わず入室を促す。侍女のニッサッサだった。酷い寝起き姿を認めるや、眉根を落として苦笑した。
寝汗を拭い、ナイトチェストに置いた水差しを口にする。
「……おはようございます。おひい様」
「ああ、すまない」私の発言を待たせてしまった。「おはよう、ニッサッサ」
「悪い夢でもご覧になりましたか。私めを待たずにお着替えになっておいでの頃ですのに」
侍女が言うように悪夢なら良い。
ニッサッサがカーテンを帯で留めるにつれて、朝日が眩しく、私は手をかざして目を細める。漂う塵がきらめいている。上辺は美しいが、所詮ゴミである。
「どうやら私は六年後に冥府から復活するらしいぞ」
とは言う気が起きない。うっかり口にして予知夢に定まりでもすれば最悪だ。「まあな」と言葉を濁し「折角だ。この髪をどうにかしてくれ。それと着替えを」と話題を逸らす。いつぞやのように花畑にされる予感がして寒気が走った。「道着にな」
「素晴らしいお申し付けですわ」どうやら花畑は確定らしい。「しかし畏れながら、今朝はてんやわんやで」
「てんや、わんや」俗語だろうか。語感が愉快だ。
入室後、カーテンから始まってずっと、床に散らばった本を棚に戻したり、シーツを畳んだりと、ニッサッサは忙しなく動き回っている。
「ささ、お召し物を」いつの間にか道着まで用意している。「寝間着はランドリーメイドに持って参りますわ」
口でブドウの皮を剥くように脱がされたおかげで、着替えは手早く終わった。姿見の前で髪の癖を無視して結う。首を左右に振り、解けないか、毛先が不用意に揺れないか確かめる。稽古中に木剣のささくれが絡めば怪我の素となる。
「よし」「はあ」すぐ傍でうっとりした溜め息が聞こえる。咄嗟に振り返ると、いつの間にかニッサッサが忍び寄っていた。
「御髪を上げたおひい様。眼福ですわ」
「世辞は好かん。毎日見てるだろ」
「日々発見にございますわ」
「もう行ったものと思っていた」
「仕事が早いと評価をいただけて、不肖ニッサッサ、嬉しゅうございますわ。ですが、おひい様も以前からご存知でいらっしゃるものかと」
ニッサッサは神出鬼没。それにしてもだ。
「ああ、日々発見、だな」
道着に着替え、ブーツの紐を結ぶ。二歩、三歩、靴の革が伸びている。違和感はあるが、支障はない。
庭に降りると、師匠とメゼキエルが待っていた。遅刻は犯していないが、心なしか脚は重かった。先に待つ二人に、お前が最後とは珍しいな。砂嵐の前触れか。と皮肉交じりに心配される。反論が出ない。たったそれだけで深刻な気配を滲ませられた。
良いからさっさとしろ。人を何だと思っている。吠えたら吠えたで、何だいつも通りか。などと言われる。それも心外だ。心外で野犬のように威嚇するのも、二人の中では私らしい仕草らしい。
「んじゃ、肩慣らしってことで」
口を開いた師匠に、私は木剣をぶん投げた。出鼻を挫かれた師匠の抗議を無視する。オイの一声も出さなかったっけか。鮮やかな無視に面食らう師匠の前を通り過ぎ、丸腰で兄上と対面した。少しだけ高い位置にある目を、刺すつもりで見据える。
「な、なん……し、心配しただけじゃないか、マリアンナ」
妹の機嫌を窺う兄は不憫な様相だったかもしれない。私が手をそっと上げると、兄上は叱られる子供のように身をすくめる。その頬に手を添える。弾力を調べるぺたぺたした感触に理解が追いつかない兄を置いて、私は私の納得を得るまで撫でた。あどけない頬から細い首へ、胸筋に腹筋は思ったよりついているが、夢に思うほどでもない。断らずに兄上の腕を持ち、筋肉の目方を量る。
一二歳だ。どう見繕っても一八ではない。
メゼキエルが顔を赤くして、うわ言を口走っている。
「坊ちゃん」師匠が言葉を選ぶ。「兄妹付き合いなんざ俺の知ったこっちゃねえけどね……身内はよしときなって」どう繕っても下世話だと開き直る声音だった。
「何の話ですか師匠!?」
二人の会話を噛み締める。どこか頼りない兄が騒いで、師匠がのらりくらりと冗談めかして、呑気な弟子二人の敵愾心を温める。そして、私は兄上をぶちのめす。私たちの今の関係は、一〇歳と一二歳だ。
「軟弱」
漏れた安堵が、兄上には嘲笑と同義で、赤い顔のままムッとした。悔しがるならまともに勝ってからにしろ。捨て台詞にぐうの音も出ない兄上を後にして、師匠から木剣を奪い返す。
「さ、公国男子目指して励も……」
ずくん、と、頭が割れる。そう感じた。
前触れのない頭痛で木剣を落とす。夢の終わり際、謎の男を兄上と確信させた、あの苦痛と同じ。
火花散らす場面の連続が頭の中で浮沈する。火花の奥で木剣を打ち合う音がする。朝の光景、あるいは人知れない夜の庭。どれも兄上との手合わせで、どれも膝を折っているのは、私の方だった。
「公女殿下」
グニール師匠の声で、我に返る。いつの間にか私は芝に膝をつき、頭を抱えて丸まっていた。その肩を師匠が支える。小刻みで浅い呼吸が、次第に平常に戻る。いがらっぽくなった喉に唾を呑み、深く息を吐いた。
「お体が優れないようでしたら、本日はお休みになられますか」
野暮な師匠がよそ行きの態度を取る。本気で心配させたらしい。悪寒を残す肩に乗った師匠の手へ、運動前に汗ばんだ手を重ね、やんわりと引かせた。
「案ずるな。今朝の夢を引き摺っただけだ」
「しかし」
「普段通りにしてくれ師匠。余計に調子が狂いそうだ」
「……そうか」
「立てるかい、マリアンナ」
見上げると、兄上が手を差し伸べている。手を伸ばし返す。が、直前に見た幻覚で、手綱が張ったように手を止めた。「ここで手を取れば、これより先、兄上に勝てなくなる」言葉にしても、現実になるような気がした。
手を引っ込めて、私は自分の足で立つ。兄上は片眉を上げて、不可解そうに訓練の顔に戻った。




