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お嬢さんの故郷で、大切に育てられたヤギが死んだ。
緩やかな岩肌の丘陵地に、ささやかな緑が点在する放牧地で、ヤギの死体が見つかった。目は抜かれ、口の端はめくれ、歯茎が恐ろしく後退し、歯根まで露わとなっている。ヤギはミイラ化していた。毛並みを掻き分けて肉を貪るシデムシたち。冥界を覗くような深い眼窩から、一匹のハエが這い出る。わずらわしい羽音で飛び立ち、たかる群に混ざって見分けがつかなくなった。
羊飼いの男は、日に焼けた顔の皺を深くした。先の曲がった杖で死体の腹を指す。
「ほれ、見てくんろ」
促されて、屈強な男が背中を丸めて目を凝らす。ハエの羽音に顔をしかめた。追い払って、やっと落ち着いて観察する。ほれ、とは何に対して言ったのか。どう見てもやはり、ただの死体にしか見えない。
「とんでもねす。こいつぁ、ついこん前までピンピンしてただ」つい漏らした本音に、羊飼いは耳聡く反応する。「血もハラワタもすっからかんだで。オオカミでも、魔物でだってこうはならねえだよ」
ヤギの腹を執拗に突く杖が鬱陶しい。男は羊飼いを片手で制して、目だけ振り返る。
「で? 何ならこうなるって?」
重い声音がズシリと乗る。羊飼いは思わず後ずさる。だが、弁明ならあった。用意した文言を舌で捏ねるように舌を打ち、男の気を損なわないように、唾で湿らせた息を吸って誤魔化した。
「そ、空……いんや、ありゃ、天だ」男が訝しんでも続ける。「天に穴ぁ開いてよ、光の道が降りた。そんがこんヤギっこ、ふわーと攫っちまったんだ」
「このヤギをか?」天どころか、ここにある死体を指す。
「あー、わーってる、わーってらぁ。わしも夢だ思ったす。けんど、しばらく振りに見つけりゃこの有様だで。ありゃ、あんまりこのヤギっこが立派だったもんで、天の神さんが攫ったに違ぇねぇ。だども、用が済みゃ天に穢れを置いとく義理ぁねえ。ほいで」
「問屋だからな」言い切らない内に男が遮る。「肉のことは知ってる。獣や魔物の仕業でないのは見りゃわかる。……にしても、天の神か。傑作だ」
変わらず面白くない声に、羊飼いはわなわなと肩を震わせた。一息に怒鳴ろうと吸った息だが、「前のも」……まだ終わってないと誇示する男の言葉に潰される。
「同じ死に様だった」
「前、たって」
問屋がわざとらしく溜め息をつく。口の前にハエの気配がして唾を吐く。
「別の牛飼いの話だ。綺麗に死んだウシが野ざらしだと、まず臓物から腐る。目やら口やらから虫の類が入って中身を平らげる。血は大地が飲み干す。肉は乾くに任せて」ヤギを顎でしゃくる。「こうなる」
「っで」
「でたらめか? なら、ヒツジの群にヤギ一頭を入れると羊飼いの仕事が楽になる、ってのも、でたらめか」
立ち上がった男は、羊飼いを頭二つ凌ぐ偉丈夫であった。男の影が、杖の頭を除いて羊飼いを覆う。
「ヤギはヒツジの群の前を行く。ヤギ一頭に首輪を繋げば、ヒツジの群を従えたも同然らしいな。ヒツジを従えて育ったヤギはいわば群の王。ヤギの王は、尊い方々への貢ぎ物に重宝すんだよ。他に先を越されるくらいなら、仔ヤギの頃で買っちまう。買った野郎、そりゃ誰だ」
震えながら、男を指差した。
「そうだ。うちのオヤジのお得意様が近々ご成婚でな。このヤギはご父母様方へのご祝儀になるはずだったんだよ」
ささやかだけどな。とは言うが、謙遜が過ぎる。誰へ贈るにしろ、成婚の時期に合わせて特別に飼育したヤギを見繕う手間暇は、一口に言い表せない苦労を含む。何よりヤギの王の売買は、贈る相手の予定を把握していなければ割に合わない商売に成り下がる。つまり、この男と相手が懇意である証拠だ。
羊飼いが見る見る青ざめる。今日、この国で婚姻が結ばれる、高貴な身分の方。そんなお方はお一人しかいらっしゃらない。
「おーおー、ようやくわかってくれたの。こうなっちゃまずいよなあ」男がヤギの亡骸を指す。「だが、先のことなんざわかんねえ。先を見据えた俺は、どんな取り決めを提案したっけなあ?」
「……せっ」貼りついて閉じた喉に、空気が通る。「世話っぽっちじゃ、どうにもなんねえ理由でヤギっこ損なえば、香典代わりに」
「ああ、取っとけ、つったなあ。盗み、加虐、狩人の誤射……飢饉でも目を瞑って祈ってやる。だが、獣はダメだ。魔物もダメだ。脱走も、病も。どれもきっちり世話してりゃ心配要らねえっつったろ。あんたが言ったんだぜ」
変わらない声音。羊飼いは息を呑む。沙汰が下るまで舌が引っ込む心地だった。両肩に男の手がポン、と乗った拍子に、息と一緒に心臓まで吐きそうに縮み上がる。
「とっつぁん、ヤギの一頭や二頭は問題じゃねえんだ。他にも伝手はあらあ。けどよ、これでも俺はとっつぁんトコのヤギに一目置いてたんだぜ? その期待を裏切られちまったのが悲しくてならねえ」
男が目を覆い、大げさに天を仰ぐ。洟をすする真似をして、鼻の下を人差し指でわざとらしくこする。ただ、物は相談ってな。と目の色を嫌らしく変える。
「俺は評判が欲しくてな。気風が良いってのも悪かねえが、節穴の評がつきまとっちゃあ看板が廃れちまう。……そうじゃねえ、違うだろ、とっつぁん。とっつぁんにゃお気に入りの話草がある。ふっかけたあんちゃんが豪ぇ目利きだった、って話だ。……ああ、だがもし、俺の目が信じらんねえなら、気風の良いとこ見せてやらぁ。香典が手切れ金になっけどな。だけどよ、損得を勘定すりゃ、どっちが旨い話か……おい、いつまで指してんだ」
固まるほど脅しをかけたつもりなど、男にはなかった。しかし、羊飼いは急激に置いたように日焼け肌の皺を深くして、驚愕に固まっていた。ツツ、とその人差し指が上がっていくのに気付く。
こいつ、気を逸らして逃げようって魂胆なら絞めるぞ。問屋の本心に反して、羊飼いの指は異様な凄みが通っている。眉をひそめて振り返る。問屋は目をこすって、改めてそれを目にした。
白昼に星が瞬いていた。
瞬く星は小さな太陽のようで、遠くで閃光と消滅を幾度となく繰り返す。
「何……だ」
瞬く星々の間に、流星が飛び交っている。空の彼方を二つに分けたように、瞬きの群も二つある。星の瞬く空は陽炎を二分したように七色の膜が揺らめいた。手の届かない世界に起こる兆しを前に、問屋の男も羊飼いも、我を忘れて見ていた。
こっちに来ている。
「伏せろ!」
問屋が羊飼いを押し倒す。遥か上空で巨大な何かの地鳴りが、風を切って行く気配がした。一陣の風を従えて、岩場の枯草を巻き上げ、男たちの上着を帆のようにはためかせる。二人の帽子は、どこかに連れ去られてしまった。
静かになってどれだけ経ったか。そこかしこに逃げたヒツジの場違いな鳴き声は、その実、ずっと聞こえている。
「あ……」羊飼いが何とか声にした。「あれだ。あれ、あれだよ。ヤギっこ、ふわー、の」
嘘だった。全て問屋のお見通しだった。だが、問屋と羊飼いの理解を超えた出来事が頭上で起こった。この機に乗じない手はない。咄嗟に口からボソボソと出た言葉は発話の体を成していなかったが、未知に圧倒されて隙間だらけの意識に、スーッと心地良く染みこんでいく。あれの目当てが本当にヤギ一頭だけであれば、どれだけ幸運なことだろうか。
慣れ親しんだ太陽の位置が変わっていた。長い尾を引く流れ星を最後に、星の瞬きはいつしか消えている。
問屋の評判は、人と物の流れのついでに広まった。曰く、気風が良く、話の通じる男だと。
◯
大気と摩擦し、白熱する。空からはぐれた流れ星が悲鳴を上げる。
悲鳴は暗号化され、信号に乗せて、空の片割れに向けて飛ぶ。星は緻密な構造物――いわゆる船艇だった。
『カイヴァリヤ! 応答! 応答ください! 落ちる! 私落ちる! 操縦不能です! 助けてマジで!』
空の片割れ――カイヴァリヤからは、雑音しか返ってこない。計器はデタラメな数値に目を回し、非常灯の明滅に合わせて警報が騒ぐ。泣き言は涙の比を増し、沈むような鳴き声に成り下がった。
喧騒を破る、場違いなくらいに冷静な声がする。
『当機の墜落予測地点に構造物を検知しました』
『ダメダメ、絶対ダメ!』泣いたり慌てたり、忙しい。『重力制御! 姿勢制御バーニア! エアブレーキ! フラップ! エルロン!』
『使用不可です』
『燃料抜いて! 軌道変わるでしょ!』
『汚染された惑星で遭難生活することになります』
『それはもっとダメぇ!』
『警告。構造物内部に、多数の動体反応。原生知性体と推測されます』
『回避に決まってんでしょお!』
『操縦不能です』
返事の代わりに、地獄を吸うような息遣いがノイズを撒き散らす。
『……ラァ、一緒にお祈りして』
『エトランゼ三等官。貴官の提案は非合理的です』
『カウンセリングの一種だと解釈してくれたら良いからぁ! どーか誰にも衝突しませんように! さんはい!』
『……どーか誰にも衝突しませんように』
全く心を欠いたラァと、錯乱するエトランゼの祈りが重なる。クモの糸を手繰るような祈りは、結末を引き当てるまで続いた。
◯




