7 小さな幽霊
「ひっ・・・」と九郎が小さく悲鳴のような声をもらした。
が、幸子も美柑も動じていない。
「まあ! ほんとに子どもなのね。いらっしゃいよ。一緒にお茶しましょ? いただいた紅茶、美味しいわよ。」
「か・・・母さん!・・・・」
美柑が立ち上がって窓のカーテンを閉めた。大きな窓だけだが、それでも部屋はけっこう薄暗くなった。
「これなら大丈夫?」
美柑が優しげに声をかけて、待ちの姿勢に入る。
目はしばらくおどおどとしていたが、やがて、ドアがゆっくりと開いた。向こうの廊下が奇妙に暗い。
その闇を背景に、少年が立っている。歳の頃は小学校低学年、というところだろうか。榛色のズボンに白っぽい綿の長袖シャツを着て、その胸のところに血がべっとりとついていた。
左の頬にも殴られたようなアザがある。
「まあ、あなた、大丈夫?」
最初に声をかけたのは幸子だった。
「おいでよ。一緒にお茶しよ? 話したいことがあるんでしょ?」
美柑が声をかけると、その小さな幽霊はもじもじした様子を見せた。
2人とも怖くないのか? と思ってから、九郎は自分自身もあまり怖がっていないことに気付いて驚いた。子どもの姿だからなのかな?
「ね。害意は感じないでしょ、九郎クン? ほら、おいでよ。ここはあなたの家でしょ?
わたしたちは後から来たんだから、遠慮なんかすることないよ。しかもわたし、お客さんだし——。」
美柑はそんなふうに言って、朗らかな笑顔を見せた。
少年は少し躊躇ったあと、廊下からそっと部屋に入ってきた。
ぶるっ。 と九郎が身を震わせる。
寒い?
「カーテン閉めたからかしら? 暖房、入れた方がいい?」
幸子がガスファンヒーターのリモコンに手を伸ばした。
「大丈夫。あったかいお茶飲めば——。」
美柑がそう言って、手で美柑の隣の席を少年に勧めた。
「ほら、この紅茶、美味しいよ。」
少年はちょっと上目遣いになりながら、口の端を少しだけ上げた。笑顔、というには慎まし過ぎる。
そのあと、部屋の入り口からそこまで来る途中の空間が無かったみたいに、すっと美柑の隣にやってきて、ソファにちょこんとお尻だけを下ろした。
「どうぞ。あなたの分だよ。」
美柑が勧めるままに少年はカップを両手で抱えるように持ち、口を尖らせて、ちびっと紅茶をすすった。
「美味しいでしょ。」
少年が初めて嬉しそうな表情を見せると、幸子もにこっと笑った。いつの間にか、部屋の寒さが消えている。
九郎も、この子を優しく迎え入れてもいいかもしれないな、と思い始めた時、突然、美柑が厳しい声を放った。
「あなた、誰?」
少年の幽霊はびくっとして美柑の方を見たが、美柑が詰問したのは少年ではない。美柑の目は焦点のない空中を見ているが、その『気』は後頭部の方に突き刺さるように伸びている。
九郎と幸子の見ている前で、突然、美柑の背後に大きな何かが現れた。
顔はガマガエル——いやサンショウウオの方が近いか——のように大きな横一文字の口で、目は顔の外の方に離れて付いている。それでいて、表情は人間のものであった。
でっぷりとした大きな体に、紋付の羽織だけを着ている。
「あなたは、誰?」
美柑はもう一度、今度は少し表情を緩めて前を見たまま聞いた。
「わしは——」
と、そのもっそりした丸いサンショウウオのようなものは、大きな口を柔らかく開いた。
「この家の家守りだぎゃ。」
「ずっと居た?」
と美柑が聞く。
「わたしの背後に来るまで強い気配がなかったけど——。」
「家守りだで、ずっとここにおるがや。おみゃーさん、鞄の中に物騒なもん持っとるな?」
「ああ、護符のこと?」
美柑は優しい目に戻って笑った。
「大丈夫。取り出したりしないよ。あなた悪いモノじゃなさそうだもん。この家を守ってきたんだね。」
「家もボンも守ってきた——。わしは、家守りだでな。」
「ヤモさんは、いい人だよ——。」
初めて少年の幽霊が口をきいた。何かちょっと必死さのある目で美柑を見ている。「護符」という言葉に危険な何かを感じて、この大きな物の怪を弁護するような光があった。
(『人』じゃないとは思うけどね)と、内心おかしがりながら美柑は優しい目で少年を見返した。
「だから、出さないって。心配しないで。たしかに『祓い』の護符ではあるけど、これは身を守るためのもので、あなたたちのような存在に使うものじゃないの。いつもカバンに入れてるんだ。それより・・・」
と、美柑は初めて背後をふり返り、その大きな化け物にしみとおるような笑顔を見せた。
「ヤモさん、っていうんだ? カップ1つ足りなかったね。」
「あら、まあ。すみません。今、持ってきますね。」
そう言って立ち上がりかけた幸子を、大きな手をひらひらさせて制止しながら、そのもっそりした物の怪はまた口を開いた。
「ああ、奥さん。気にせんでちょーでゃあ。わしの口では小さなカップは飲みぬくいで。」
言うやいなや、ポットを指でつまむとどこに首があるか分からない顔をやや上に向け、大きな口をかぱっと開けてポットから直接口の中にトポトポと注ぎ込んだ。
皆があっけにとられている中、ポットの紅茶を全部口に注いでしまうと、笑ったような顔で、べろん、と舌で口のまわりを舐めてひどく満足そうな声を出した。
「んんん、うんめぇ——!」