45 過去から未来へ
翌日は、美里亜が幸子の買い物に同行していった。
『わたし、そういうの得意だから!』というのが美里亜のLINEの返信だったが、得意というよりは好きなんだろう。
美柑と樹はペンションの喫茶を手伝いにやって来た。
手伝いに来た——は口実で、実は女の子の姿のヒロくんが見たかった——というのが本音らしい。
ヒロくんも今日は初めから姿を見せて、くるくる回ってはスカートの裾を広げて見せた。
「かわいい——!」
と美柑が両手を口の前に持ってきて言うと、また嬉しそうに何度もくるくる回って見せる。
喫茶のお客さんが来た時は、さすがにドアの向こうに隠れてしまうが(服ごと消えることができないのだ)、スタッフだけになると、また居間に出てきてくるくるやってはしゃいでいる。
こんなヒロくんを見るのは、誰もが初めてだった。
「素晴らしい! 幸子さん!」
矢田さんが、帽子を持ち上げて何度もその称賛の言葉を口にした。もっとも、肝心の幸子は服の買い出しに行っていて、ここにはいないのだが。
「素晴らしいです! こんな! こんな奇跡が起きるなんて!」
矢田さんも、なんだか普段のクールな矢田さんらしくなく興奮している。
「あの子があの服を脱ぐことができたのは、皆さんの、特に幸子さんのおかげですよ! あの方は菩薩様の化身なのでは——?」
大げさな——と九郎は苦笑しているしかない。幽霊が服を着替えられた、というのはそんなにすごいことなのだろうか。
まあ、たしかに——。ヒロくんのこのはしゃぎようは今までにないことではあるんだけど。
いつの間にか恵無さんも現れて、矢田さんの帽子の上でヒロくんに合わせてくるくる回っている。ナナシちゃんも現れて、ヒロくんに拍手している。
朝からキッチンの手伝いに来ていたお鈴さんは、尻尾をふりふりしながら上品な笑顔で目を細めてヒロくんを眺めている。
なんだか今日の『ペンション幸』は、ハロウィンパーティーの時とは違った空気の特別な日になったみたいだった。
しばらくすると、門が、ぎいぃぃぃ、と開く音がして
「今日はまた良いお天気で。」
という声がした。源蔵さんだ。
源蔵さんは居間に入ってくるとヒロくんの姿を見るなり
「おお!」
と声をあげた。
「ボンは、服を着替えることができたんですか !?」
「うん。」
ヒロくんが声を出して返事をする。これだってすごく珍しいことなのだ。返事をしてから、ヒロくんは源蔵さんにもくるっと回って見せた。
「おう、おう。かわいいねぇ! いやいや、こうなるとボンと呼ぶのも変ですよねぇ。うん。」
と源蔵さんは見えない手をポンと打った。
「これからは、お嬢と呼ぶことにしましょうよ。矢田さん、ヤモさん、どうですね?」
「いいですね。」
と矢田さんが言う前に、ヒロくんが返事をした。
「うん。 ぼ・・・わたし、それがいい。」
美柑がそれを受けて
「じゃあ、わたしたちが呼ぶ呼び方も『ヒロくん』じゃない方がいいかな?」
と言うと、樹も同意する。
「そうだな。『ヒロちゃん』に変えよう。」
「それ、ちょっと安易くない?」
「いや、いいよ。なんか今まで呼んでた感じに近いし、オレたちも呼びやすいと思うけど。」
と、これは九郎。
そんな会話に「実は・・・」とヤモさんが参加した。
「2人だけの時は『ひろひこ』だなて『ひろこ』と呼んどったんだぎゃ。この格好をしとる時だけだけどなも。」
「ひろこちゃん・・・か。」
九郎が繰り返すと
「はい。」
とヒロちゃんは嬉しそうに返事をした。
これで九郎たちがどう呼ぶかは決まった。
たしかに、本当に、今すごい変化が今この屋敷で起こっているのかもしれない。
特に長年出入りしていた妖怪たちからすれば、信じられないようなすごい変化が——。矢田さんのあの興奮ぶりも、仕方ないのかもしれない。
ヒロくんは、明らかに明るく積極的になっている。服を着替えられた。というただそれだけのことなのだが、幽霊であるヒロくんにとってはそれは縛られていた過去からの解放を意味しているのかもしれなかった。
九郎も、美柑も、樹も、ほぼ同時に同じことを思った。
ヒロちゃんの意識は「過去」から「今」に移り、そして、無限に広がる未来へと向けられたんじゃないか。それが、矢田さんの言う成長——。成仏とは違う・・・。
まるで、一度閉じられてしまったヒロくんの人生が、薄明の世界の中で再び甦ったような———。
そんなことを考えていて、九郎は今になってハタと忘れていたことを思い出した。昨日乾燥させたヒロくんの服を洗濯機から出していない。
いけね、いけね。ヒロくんのあまりのはしゃぎように、すっかりそっちのことを忘れていた。あの汚れは取れたんだろうか。
九郎はランドリー室に行って、洗濯機のフタを開けた。
中は空っぽだった。
「ヤモさん?」
居間に戻ってきて、九郎は怪訝な顔でヤモさんを呼んだ。
「洗濯機の中のヒロくんの服、取り出した?」
「わしゃあ、フタの開け方がわからんぎゃ。」
母さんが片付けたのかな?
そうこうして、時々喫茶のお客さんが来たりしているうちに午後の陽もやや傾く頃になり、幸子と美里亜が紙袋を抱えて帰ってきた。
「ヒロくん、服買ってきたよ——。着てみる?」
美里亜が玄関で明るい声を出した。
「あれえ、妖怪さんたちも勢ぞろいだぁ。」
そうなのだ。今日はたぶん、ヒロちゃんの2度目の誕生日なのだ。
「美里亜、それに母さんも聞いて——。ヒロくんのことは今日から『ヒロちゃん』か『ひろこちゃん』って呼ぶことにしたんだ。本人もヤモさんも公認だよ。」
「それは、いいわね ♪ 娘ができたみたいだわ。」
幸子は笑顔でそう言いながら包みを開け始めた。
「気に入ってもらえるといいんだけど。」
ソファに広げられた3種類の服を見て、ヒロちゃんが歓声を上げた。
「わあ! すごーい! きれい! 着てみていい?」
「もちろん! ヒロちゃんのために買ってきたんだもん。」
ヒロちゃんは顔を輝かせて3着の服を持って、宿泊室になっている隣の部屋に入っていった。
そこから先は、ヒロちゃんの独占ファッションショーになった。
喫茶のお客さんがいても、ちょっと躊躇うだけで、そそっと出てきてくるっと回って見せるのだ。
妖怪たちも誰も姿を隠さない。みんなで拍手をしたり囃したりして、賑やかなスペシャルティータイムになった。
たまたまそこに居合わせた喫茶のお客さんにとっては、特別お化け大サービスである。
「え? かわいい。 この子、あの動画の幽霊の子?」
「そうですよ。今日から女の子になったんです。今日は特別な日なんですよ。」
矢田さんがそう言って、嬉しそうに帽子をひょいと持ち上げて見せる。
「・・・・?」
「そういえば母さん。洗濯機の中のヒロく・・・ヒロちゃんの服、どこかにしまった?」
九郎は思い出して聞いてみた。
「わたし、触ってないわよ。クーちゃんが取り出したのかと思ってた。」
・・・・・・・・・
「消えましたか。」
と矢田さんが、帽子を持ち上げた。
「あの子にとって、もうそれは必要なくなったのですよ。晴れて、魂のあるがままの姿になれたことで——。素晴らしいです!」
矢田さんはまたその言葉を口にして、帽子をひょいと持ち上げた。




