44 女の子
その変化は、ある日突然起こった。
でも考えてみれば、それは顔のアザが消えたあたりから徐々に、しかし確実に、ヒロくんの中で動き始めていた変化なのだろう。
幸子がなぜそんなことを言ったのか、今となっては幸子自身にも分からない。この家の中で何かが満ちて、泉の水が自然にあふれるように起こるべくして起こったことなのかもしれなかった。
「ねえ、おばさんとお風呂はいる? その服、脱げる?」
その日の夜、幸子はヒロくんに読み聞かせをしたあと、ふと思いついたようにこんなことを言ったのだった。
ヒロくんはびっくりしたような顔をしたが、すぐに嬉しそうに笑ってこっくりとうなずいた。
「その服の汚れも、お洗濯しちゃおうよ。」
真っ赤な血の色だったヒロくんの胸の汚れは、いつの間にか、なんだか茶色っぽくなっていて少し薄くなっている。
へえ。幽霊でも服、脱げるんだ——。と九郎は驚いた。幽霊の場合、服も含めてそれは本人のイメージなんだ、と思っていたからだった。
お風呂の中からヒロくんの笑い声が聞こえてくる中、
「わしが洗濯するぎゃ。」
とヤモさんがヒロくんの服をカゴから持ち上げた。・・・・が、洗濯機の使い方がわからない。
「僕がやるよ。」
九郎が笑いながらヤモさんからヒロくんの服を受け取って、フタを開けて放り込んだ。
取れるのかな? この血の痕——。
それはなんだかもう古いコーヒーのシミみたいな色になっていたが、不思議なことに刺されたはずの破れ目がない。
九郎は洗剤をセットして、スイッチを入れる。ごうん、ごうん、という音が聞こえ始めた。お風呂からは、ヒロくんのきゃっきゃ言う声が聞こえている。
あの子、初めの頃はこんなふうにはしゃいだりしなかったよなぁ——。
「クーちゃん、そこにいるなら2階に行って、クロゼットからあんたの子どもの頃の服みつくろってきて。まだいくつかあるはずだから——。」
そうだった。いくら乾燥までのコースを選択してあっても、乾くまでヒロくんの着るものないじゃないか。洗濯機に放り込む前に、そのこと考えるの忘れてた。
「ええもんがあるんだぎゃ。」
ヤモさんがそう言って、ひらひらと手招きする。
「?」
九郎がヤモさんについてゆくと、ヤモさんは宿泊室用にしてある部屋の中に入っていった。宿泊室といっても、今は宿泊するお客さんがいないから使われていない。
ヤモさんは、その部屋に以前からあったローチェストの左下の引き出しに鍵を差し込んで、それを開けた。ずっと開かなかったやつだ。
あ、その引き出しの鍵、ヤモさんが持ってたんだ——。
ヤモさんはその奥の方をゴソゴソやっている。
「隠しといたで、見つからんかったやつが1つだけあるんだぎゃ。」
そう言ってヤモさんが取り出したのは、フリルの着いた女の子の服だった。ずいぶんレトロな感じがするのは、昭和の初め頃のデザインだからだろう。
「ヒロはこれが好きだったでなも。あれが脱げたんなら、これに着替えさせてやりてゃあで——。」
ヤモさんの目が、少し潤んでいる。
そうか。ヒロくん、魂は女の子だったんだよね——。
「着替え、カゴの中に置いておくから。」
九郎は特に何も言わず、その子ども用ワンピースをたたんでカゴに置いた。ヤモさんにこっそり耳打ちする。
「サプライズにしよう。」
九郎とヤモさんが居間にいると、お風呂の戸が開く音が聞こえて、・・・それからしばらく経ってヒロくんの
「わあ!」という歓声が聞こえた。
少しすると、廊下から踊るような足取りでヒロくんが居間に入ってきて、九郎たちを見つけるとフリルの付いたスカートの裾を広げて、くるくるっと回って見せた。
すぐ後ろから、頭にバスタオルを巻いた幸子が笑顔で入ってきた。
「こんな服、どこにあったの?」
「ヤモさんが鍵のかかる引き出しの奥に隠してたんだ。見つかって捨てられないように。」
ヒロくんは満面の笑顔で、ヤモさんの太い腹に飛びつくようにしてペタッと抱きついた。
そして、はっきりとこう言ったのだ。
「ありがとう! お母さん!」
やっぱり、知ってたんだ——。ヒロくん。
ヤモさんの、両脇に離れたような目から、大粒の涙がぽろぽろとこぼれ出した。
「あの子ね・・・」
キッチンで片付けをしながら、幸子は手伝っている九郎に話しかけた。
「一緒にお風呂に入ってみたら、あの子、おちんちん無いのよ。」
え? 本当に女の子だったの?
そんな九郎の表情を読んだのだろう。幸子はちょっと微笑んでから続けた。
「女の子のものも無いの。つるんとしてるのよ。」
お皿をかちゃかちゃと重ねて戸棚にしまいながら言う。
「世間の期待と自分の本当の気持ちとの間で、きっと困っちゃったんじゃないかな——。困ってるうちに体がなくなっちゃったから、ああいう幽霊になってるんじゃないかしら。」
ああ、幽霊の形は妖怪と違って、きっと本人のイメージだから・・・。
それなら———。
血の痕の付いた服が脱げた、っていうことは・・・・。
これが矢田さんの言う成長ってことなんだろうか。
何にしても、今日のヒロくんは特別に幸せそうだった。ヤモさんも・・・。
「明日、あの子のための女の子用の服、買いに行ってくる。お金、少し使っちゃうけどいいよね?」
幸子が戸棚を閉めて九郎に言う。
「もちろん。美柑か美里亜に服選び手伝ってもらう?」
九郎もなんとなく顔がゆるむ感じで答える。ヒロくんの輝いた顔が目に浮かんだ。




