42 ヒロくんの幸せ
奥の部屋では、まだ幸子の読み聞かせの声が聞こえている。
ちょっとしんみりした空気をかき混ぜるように、ヤモさんが明るい声を出した。
「だけど、今はボンもわしも幸せだでなも。あんたらのおかげで——。」
ヤモさんは、その大きな口を、にぱあ、と開いた。
「古川の家は、あの後すぐに没落して、今は血筋も残っていないそうです。まあ、バチが当たったんでしょうね。ヤモさんたちは、何も祟ってもいないのにね。」
そんなふうに話を締めくくって、矢田さんはまた帽子をひょいと持ち上げた。
「ヒロくんは・・・」
と九郎は聞いてみた。
「ヤモさんがお母さんだと知ってるんですか?」
「さあ——。気がついとるかもしれんが、わしの口からは言っとらん。こんな姿になっちまったでなも。」
「もし・・・。もし、ヒロくんの体が見つかって供養できたら、ヒロくんは成仏するんですか?」
「さあ。それはどうでしょう。とりあえずボンはみんなと一緒にここにいることが幸せみたいですし、何より、あなたたち生きた人間が家族のようになってくれたことを喜んでますしね。ずっとここにいたいんじゃないでしょうか。」
そう言って、矢田さんはまた帽子をひょいと持ち上げた。
「もう1つ聞いていいですか?」
九郎が矢田さんとヤモさんを見ながら聞くと、矢田さんがにこっと笑って帽子を持ち上げた。
「今の話、母や他のみんなにも話しても大丈夫ですか? ヒロくんがもし知らないことが含まれてるなら・・・・」
「かまわんでぇ。わしが言っとらん、というだけで、あの子はたぶんもう気がついとると思うでなも。」
「私もそう思います。ボンは成長している、と言いましたでしょ?」
あとでこの話を九郎から聞いた幸子は
「わたし・・・、ヤモさんに悪いことしちゃったかしら?」
と心配そうな顔をした。
「そんなことないと思うよ。だってヒロくんはとても幸せそうだし、それはヤモさんも長年望んできたことだし。」
「ヒロくんは、ヤモさんがお母さんだって知ってるの?」
「たぶん——。でもヤモさんの口からそれを言ったことはないって。他のみんなも、直接話したことはないらしいんだ。
殺されたばかりのヒロくんはたぶん、お母さんが庭で首を吊ったのも見てるはずだし、その頃から出入りし始めた矢田さんやお鈴さんや源蔵さんはそんなヒロくんの心に気を遣って、その辺のことは言わないまま今日まできてしまったんだって。」
大学のアトリエ棟でこの話を聞いたスタッフの3人、樹と美柑と美里亜は異口同音に九郎と同じ反応をした。
「ええええええ! ヤモさんがヒロくんのお母さん?」
「ヤモさんって、女性だったの?」
「だって、あの顔・・・」
言いかかって美里亜が慌てて口を押さえた。
「大丈夫だよ。ここにはいないから。」
九郎が笑いながら美里亜に言う。
「それに本人も気にしてないみたい。あの姿はおトキさんの霊がヤモリに憑依することで生まれたわけだし、それはつまり、ヒロくんへの強い愛情の証でもあるんだし。
矢田さんが言うには、ヒロくんは成長してるって。つまり幸せになってるってことらしいんだけど——。僕たちが、あの妖怪たちの輪に加わったことで。」
「たしかに・・・。読み聞かせしてもらってる時のヒロくんは、すごく幸せそうな顔してるよね。あの・・・みんな気がついてる? ヒロくんの顔のアザと胸の血の跡、最近少し薄くなってるような気がするんだけど——。」
霊感の強い美柑がそう言うと、他の2人も「そういえば・・・」と同意した。九郎は毎日見ているので、その変化には気付けていない。
それもつまり、ヒロくんの成長のうちなのだろうか。
「だから、スタッフとしてできるだけ『ペンション幸』に来てよ。それがヤモさんにもヒロくんにもいいことみたいだし。コロナはあるけど、一応あの門があるから大丈夫だろ。」
九郎がそう言うとみんなもうなずき、その日はそのまま全員が『ペンション幸』まで一緒についてきた。
3密もへったくれもあったものではない。
大丈夫なのだ。 あの門があるから。




