40 ヤモさん
季節は巡っていくが、コロナはいっこうに収まる気配がない。どころか「第2波」とか言われ始めている。
テレビでは毎日感染者数が報じられて騒がれていたが、不思議なことに九郎たちの周りで「感染した」という人は聞かない。
「感染したの知られると嫌だから、黙ってるのかなあ・・・。」
美里亜がそんなふうに言うと、樹が冷静に数字を上げて答えた。
「名古屋市の人口だけでも200万人超えてるんだぜ。その中で何百人か感染したとして、それがオレたちの近くにいるっていう確率はめちゃくちゃ低いんだから当たり前だよ。しかも、感染者は感染者の周辺にいることが多いわけで——。」
数字でものを考えるあたり、いかにもプロデューサー志望の樹らしい。デザイン科の他の面々は、感覚でしかものを捉えられないヤツが多いのだ。
さて、『ペンション幸』。
そんな中でも宿泊はともかく、喫茶の方は大繁盛とは言えないまでもそこそこお客さんに来てもらえていた。
効いてるんだかどうだか分からないあの結界ゲートも、今のところ引っかかるお客さんはいない。
それでも「通れた!」ということでひと安心して、そのまま喫茶のお客さんになってくれる場合がほとんどなのだ。
公式動画やSNSを通じて、『ペンション幸』の幽霊喫茶は少しずつ静かに拡まっていた。
幸子は、というと、喫茶の仕事や調理師免許の勉強が終わって暇ができると、あのカウチに座ってヒロくんに児童書を読んでやることが多くなった。
「ヒロくん、時間空いたわよ。」
と幸子がチッペンデールの前で言うと、ヒロくんが嬉しそうにカウチの上に現れるのだ。
そんな時、ヤモさんは優しくそれを眺めているのだが・・・。どこか、少し寂しそうに見えないこともなかった。
今も、ヤモさんは部屋から出てきてダイニングテーブルの椅子にちょこんと座り、扉の開いた宿泊室の方を眺めて、ほっ、とひとつ息をついた。
「ヤモさん・・・。」
と九郎は声をかけた。
「どうしたの?」
ヤモさんは顔の両脇に離れた目を少し細めて、その大きな口をさらに横に広げて、にへら、と笑った。
「なんでもにゃー。」
それからまた、開いた扉の方を見て、ぽつりと言った。
「子どもはいつか、成長して離れていくもんだで・・・。」
「?」と九郎はヤモさんの顔を見た。
成長・・・? ヒロくんが? 幽霊なのに? いや、だいたいヤモさんは家守りだろ? 離れるも何もないんじゃないの? ヒロくんはここから出られないんだし——。
「幽霊だって、心は成長しますよ。生きてる人間ほどじゃありませんが。」
九郎がふり返ると、矢田さんが帽子を持ち上げていた。この人はいつも、どこから現れるんだろう?
毎度カラスの姿で庭に舞い降りるわけではなく、いつの間にか家の中にいたりもする。しかも今、九郎は疑問を声には出さなかったはずだ。
「ヒロくんは動き出していますよ。この80年ほど全く変わらなかったけれど、ここにきて成長を始めてるんですよ。」
矢田さんもそう言って目を細めた。
「幸子さんや九郎さんや、名美の人たちのように生きた人間と触れ合っているのがいいんでしょうかねぇ——。私たちのような妖だけでは、十年・・・いや、百年一日なんでしょうねぇ。」
そう言ってから矢田さんはヤモさんの顔を見て、世間話でもするみたいな調子で言った。
「ねえ、ヤモさん。ヒロくんは今、幸せそうですよねぇ。」
「ああ。わしもそう思っとるぎゃ。」
ヤモさんはまた目を細めた。
「我が子が幸せになって喜ばん親はにゃーで。」
我が子?
怪訝な顔をした九郎を見て、矢田さんが少し笑った。
「ヤモさん。そろそろ話してもいいのでは?」
「ほうだなも。・・・わしゃあ、あれの母親なんだがなも。」
は? ・・・・・・・・ははおや?
ははおやって・・・・母親のこと?
え?
ええ?
ええええっ——?
ヤモさんって、男じゃないの!?




