38 ヒロくんの居場所
「あら、これ児童書だわ。」
チッペンデールの飾り棚の中にあった本を開いて、幸子が声を上げた。
あの古物商がもののけ路に消えてから5日後、スタッフ3人が今後の打ち合わせのために『ペンション幸』に勢揃いしていた時のことだ。
皆、家具の方ばかりに気をとられていて、中の古い本のことは気にも留めていなかったが、それは古い仮名遣いで印刷された本で、とてもレトロな「挿し絵」もついていた。
かなりしっかりした装丁だが、よく愛読されたのだろうか、ところどころ擦り切れたようなところもある。
「ヒロくんのものかな?」
「それ以外あり得ないでしょ。」
幸子さんがそう言って笑うと、ヤモさんがにこにこ顔で、ぼわぁ、と現れた。隣にヒロくんも現れて、ちょっとはにかみながら嬉しそうな笑顔を見せる。
「そっか。家具じゃなく、これがヒロくんにとっては大事だったんだね。」
美里亜が、分かった!、という顔で言うと、霊感のある美柑はそれに異を挟んだ。
「家具もだと思うよ。」
九郎もそれに同意する。
「うん。この家も、この家にあるものも、すべてヒロくんの大事な思い出の品なんだと思う。住んでると分かるんだ。」
「でも・・・。この家でヒロくんは殺されたんだよね?」
美里亜がそう言った途端、部屋がすうっと寒くなった。
樹が振り返って見ると、ヒロくんは無表情になっている。ヤモさんがちょっとオロオロした様子を見せた。
その話はやっぱり、ここではタブーであるらしい。
「美里亜。」
と九郎がたしなめると、美里亜は慌てて口を両手で押さえたが、出てしまった言葉は元には戻らない。
気まずい空気の中で、ヤモさんに促されるようにしてヒロくんは消えてしまった。もちろん、ヤモさんも一緒に・・・・。
打ち合わせの間中、美里亜は彼女にしては珍しくずっとヘコんでいた。
「僕たちはまだ・・・」
門のところまで樹と美里亜を送りながら、九郎は言った。
「僕たちにはまだ、踏み込んではいけない彼らの領域があるんだと思うよ。」
「生きている人間には、入り込んではいけない彼らの世界があるのかもしれないしね。」
と美柑も言う。
「ん・・・・」と美里亜はしおらしい。
「慌てなくても、もう少し馴染んでくればそのうち・・・そう、気が向けば自分から教えてくれますよ。ヒロくんの身の上の話や、今あの子がどこに居るのか———。」
いつの間に傍に来ていたのか、矢田さんが帽子をひょいと持ち上げて微笑んでいた。それから目だけで『ペンション幸』の建物の方を指す。
その目線を追って、ちょっと不安そうに建物の方を振り返った美里亜が、「あっ」と小さく声をあげた。
少し波打った古いガラスの入った格子窓の向こうで、ヒロくんがこちらに向かってちゃんと笑顔で手を振っていた。間違いなく美里亜を見ている。その後ろに、笑ったようないつもの顔のヤモさんもいた。
美里亜が跳び上がるようにして手を振り返した。目にうっすら涙が浮かんでいる。
「またねぇ!」
そう。僕たちはもう、ただのお客さんではないんだ。少なくともね。
いつも賑やかにやってくる妖たちと同じように「仲間」として認められてはいるのだから。ゆっくり時間をかけてゆこう。
巡り合った「縁」を大切にして——。
「ねえ、矢田さん。」
と九郎が黒い帽子の矢田さんの方を見た。
「ヒロくんはここにいるんじゃないの?」
矢田さんは帽子をひょいと持ち上げて、にっこり笑った。その笑顔は、やっぱり妖怪のものだ。
「ここにいますよ。供養されてない骨がここにあるからヒロくんの魂もここにいるんじゃありませんか。」
え? それって、遺体がこの家のどこかに埋められてる——ってこと?
樹と美里亜っを見送った後、美柑と九郎は一緒にまた建物に戻ってきた。美柑にはまだ、パンフレットやナンチャッテ護符の仕上げやNET配信の調整やらの仕事が残っているのだ。
九郎も手伝って仕事もひと段落つき、帰る前に幸子さんに挨拶を、と美柑がキッチンを覗くとそこに幸子さんがいない。
「あれ? 幸子さんは?」
と言うと、九郎も「ん?」という顔であたりを見回した。
どこかから声は聞こえている。
宿泊室にしている奥の部屋のようだった。誰かと話しているみたいだ。
2人ともそのことは別に不思議がらない。なにしろ、この家には始終ヤモさんの友達の妖怪たちが出入りしているのだから。
「母さん?」
と九郎がその部屋の入り口から覗くと、あのチッペンデールの前のカウチに幸子さんは座っていた。幸子さんのすぐ隣に、なんとヒロくんが幸せそうな顔をして座っている。
幸子さんはそんなヒロくんの肩を抱きかかえるようにして本を持ち、ヒロくんに読み聞かせをしていた。チッペンデールの中に入っていたあの古い児童書だ。
「そして2人は一緒に稲妻のマントにつかまりました。稲妻がぎらぎらっと光ったと思うともういつかさっきの泉のそばに・・・」
ああ、そういえばオレも昔こんなふうに母さんに読み聞かせしてもらってたなぁ——と九郎は思い出した。オレはもっと小さな頃だったから、母さんの膝の上に座っていたっけ。
ヤモさんがベッドの端にちょこんと腰かけて、その様子を微笑みながら眺めている。
ただ・・・、その目が心なしか一抹の寂しさをたたえているように見えたのは、九郎の見間違いだろうか。
「おばさん、旧仮名づかい、すらすらと読めるんですね・・・。」
感心したように言ってから、美柑は慌てて「幸子さん」と言い直した。
「わたし、みんなよりは古い人間だからぁ——。」
幸子はちょっと読み聞かせを中断してそんなふうに返してから、にこっと笑った。
「古典はけっこう得意科目だったの。」
古典、って言うほど古くはあるまい。昭和初期頃の児童書だ。
成仏できないからいるっていうような雰囲気じゃないなあ——。
九郎は、さっき矢田さんが言ったことを思い出しながら、そのほのぼのとした光景を戸口から眺めていた。
弟ができたみたい———。




