32 マスク
お鈴さんが狐の姿になって窓から飛び出した日の夜、あの不快な書き込みの数々はピタッと止まり、それだけでなく、過去の書き込みも一斉に削除されてしまった。
お鈴さん・・・、何をやったんだ?
「これは、ビジネスになるな。」
補習から解放されて1日遅れで『ペンション幸』にやってきた樹が、真顔でそんなことを言った。
「誹謗、中傷やフェイクの書き込みに困ってる人は大勢いる。プロバイダーに削除要請しても対応は鈍いし、裁判するにしたって大変な労力と費用がかかる。それを、お鈴さんに頼めば・・・」
「わたくしは赤の他人のために、そんなことはいたしませんことよ。」
ツンとすまして横を向いたお鈴さんに、樹が媚びるような顔で説得を試みる。
「お金になるんですよ。動画なんかよりはるかに手っ取り早く。お鈴さんの取り分を大きくしますから・・・」
「わたくし、お金は自分で作れるって申しておりますでしょ? 今回のことは、ナナシちゃんへの悪口が許せなかっただけなんですからぁ——。」
いや・・・だから、そのお金は・・・・。
まあ、使う分には使えるだろうけど、受け取った方は災難だよね?
「樹——。あまり脱線しないようにしようよ。金になればなんでもいいってわけでは・・・。一応、僕たちがこのペンションをやっていくことをベースに考えたいんだけど・・・。」
九郎は一応社長としての意見を言ってみた。
「なんでもじゃないよ。ちゃんと社会のニーズに応えることになると思うんだけどな。」
樹はなおも自分の意見にこだわる。
「そうかもしれないけど、でもそれはもう完全にお鈴さんにおんぶに抱っこじゃないか。お鈴さんだって嫌がってるんだし——。」
「そうですわ。祟るのにもエネルギーが要るんですのよ。」
そうなんだ・・・・。
「とにかく、『ペンション幸』の動画と、ここに来てくれるお客さんを増やすことを考えようよ。祟りを商売にするなんて・・・、オレはどうも・・・。」
「そうよ。幸せな人を増やしたいから『幸』って名前にしたんだもの。そっちの方向でお願い。プロデューサーさん。」
幸子が手を合わせるような仕草をして樹に笑いかけると、樹は少し顔を赤くした。
そんな感じでこの話はたち消えになり、次回動画の打ち合わせに入ろうとした時だった。
樹が突然
「ぶふっ!」
と吹き出したのだ。
一瞬何が起こったか理解できない3人の背後を、樹は顔を真っ赤にして指差している。目は思いっきり笑い目だ。
九郎たちが振り返ると、そこにヒロくんとヤモさんがいた。
マスクをしている。国から各家庭に送られてきたあの布マスクだ。
ヒロくんはいい。子どもだし、大きさもちょうどよくて普通に見える。
ヤモさんだ。
その大きな口の中央に、ちょこんと布マスクがあって、しかもゴムが耳まで届かないから、口の両端に割り箸をくわえてそれに引っ掛けているのだ。
「やだぁ———っ!」
と最初に声に出したのは幸子だったが、そのあとは3人全員がまともに声も出せないまま、ひきつるようにして笑い出すことになった。
「そ・・・そ・・・そ・・・!」
「ほんなに可笑しいかや? えすえぬえすとかでマスクしとらんちわれたから、誰も使っとらんやつでしてみたんだがね。・・・ほんなに変かなも?」
「ひい! ひいい!」
樹が、どこから出ているのかわからないような変な声を出して体を二つ折りにしている。ヤモさんを指差して何かを言おうとしているのだが、言葉にならない。
「ひい! ひい! それ、ひい! 動画! どうが!・・・」
あっ! と九郎も気がついて、笑いすぎて涙目になった顔で急いでスマホを構えた。
笑いというのは不思議なものらしい。複数人で笑い始めると、笑っていること自体が可笑しいみたいに笑いが止まらなくなる。
いったん笑いをこらえても、また誰かが堪えきれずに「うふふ・・・」と笑い始めると、みんなつられて笑い出してしまって止まらない。
しかも目の前には笑いの原因、サンショウウオみたいな顔をしたヤモさんのおちょぼマスク顔が変わらずに
どーん!
とあるのだ。
そのうちヒロくんまでが、引き込まれて笑い始めた。ヒロくんがこんなふうに笑うなんて、九郎たちがここに引っ越してきて以来、初めての出来事だった。
ヒロくんが楽しそうに笑っているのが嬉しいのだろうか、ヤモさんも、ぐっ、ぐっ、と喉から妙な音を出して笑い目になった。
何がウケてるのか理解できたらしいヤモさんは、ぐっ、ぐっ、ぐうっ、と喉で笑いながらも口は割り箸をしっかりくわえ、おちょぼマスクの顔を右に左に降りながら、ヒラヒラと手を舞わせて踊り出した。
「ひい! ひい! さ・・・最高! これ! ひっ! ぜったひ・・・ばっはっはっはば・・・ばっ・・・ばずるふ!」
樹もいつの間にかスマホを構えて撮影している。
笑いが止まらないが、ブレてないかしらん。
今日はただの打ち合わせだから結界も張っていない。だからその笑い声はふつうに外にまで漏れている。
外から見た『ペンション幸』の窓の灯りは、なんだかいつもより少しだけ暖かそうに見えた。




