28 家族
ああ・・・、それで、「ナナシ」・・・・。矢田さんの話を聞いて、九郎はあの子の名前の由来が想像ついた。名付けたのはお鈴さんだろうか?
それにしてもなんという・・・、と涼太は思う。未熟児のまま、ボットン便所の中に産み落とされて・・・そのまま放置だなんて・・・。なんという、この世への出で方だろう。
どんな形であれ、よくぞこの世にとどまったものだと思う。普通に生まれ、普通に抱っこされて育った涼太には想像を絶する境遇ではないか。
涼太はもう一度、ナナシが消えていった廊下の方を見やった。その扉付近にも、その先の少し薄暗い廊下にも、あの妖怪の姿は見えなかった。気配すら感じない。
あの山盛りのクッキーを抱えて、あの子はどこへ消えたんだろう。
「家族・・・」
と小さくつぶやいて、涼太は目を手元に戻し、ややうつむき加減にティーカップの底に残ったミントの葉を眺めた。白いカップに、若緑色の葉っぱが妙に鮮やかに見えた。
「ああ、お代わり入れましょう。」
幸子がテーブルの上のポットを取って、涼太のカップのそばに持っていって小首を傾げた。こんな仕草が、年に似合わず少女のようだ——と涼太は顔を上げて思う。
自分の母親と同じくらいの年恰好の女性に対して持つ感想ではないかも知れないが、それにしても涼太の母親とはずいぶん違う。
「あ、ありがとうございます・・・。」
涼太は相変わらずティーカップを湯呑みみたいに両手で持っている。
「僕は・・・とても、恵まれていますよね・・・。大学教授のお父さんに、会計士のお母さん——。2人とも優しくて・・・、仕事だって忙しいのに、僕のこともちゃんと気にかけてくれる・・・。」
そんなふうに言っているのに、涼太の表情は曇っている。
「それなのに・・・、僕ときたら、廃墟だの幽霊だの妖怪だのって・・・・、あ、ごめんなさい。」
涼太はじぶんが今口走ったことがひどく失礼なことだと気がついて、慌てて矢田さんの顔を見てからペコリと頭を下げた。
「いいんですよ。」
矢田さんは、ひょいと帽子を持ち上げてから、小首を傾げて涼太の顔を覗き込んだ。その首の傾げ方が、なんだか鳥のようだ。
「家族・・・、負担ですか?」
涼太の頬から、さぁ——っと血の気が引くのが傍目で見ている幸子にも九郎にもわかった。
この人は!
涼太くんに何をしようとしているのだ?
九郎は何かを言おうと口を開けたが、適切な言葉が見つからない。しかし、このコロナ禍の中やっと来てくれたお客さんに対して、いくらなんでもこれは・・・。
「ぼ・・・僕は、そんなことは・・・・」
涼太が乾いた唇を湿らせるようにハーブティーを一口飲んでから、目の焦点を空中に置いたまま、やっと声に出した言葉に対して矢田さんがさらにたたみかけた。
「ご両親は、忙しいのにちゃんと涼太さん、あなたのことを愛してくれています。それがよくわかるから、あなたもそれに応えなきゃ、って思うわけでしょ? そのあなた自身の思いが、あなたにとって負担になってしまってるんじゃありませんか?」
宙を見ていた涼太の目の焦点が、矢田さんの目に合った。
「本当は、わがまま言って、手のかかる子になって、ここのパーティーに来たかったんでしょ?」
矢田さんの首の傾げ方は、やっぱり鳥だ。
涼太の目が充血してきた。 怒っているのでもない。悲しみ・・・でもない。・・・何だろう、この表情は?
「ぼ・・・僕の両親は、ちゃんとしてます! それに応えようとするのは、人間として当たり前のことじゃないですか? 僕は、妖怪とは違う!」
最後の一言は言ってはいけない一言だ——と、涼太にも分かってはいた。それでも、それが口をついて出るのを止められなかった。
祟られるかもしれない———。(>_<;)
涼太は充血した目のままで矢田さんを見上げた。
矢田さんは怒ってはいないようだった。ただ、さっきと同じように鳥みたいに首を傾げているだけだ。ナナシという妖怪も姿を現すわけではなかった。
しん、と静まりかえった『ペンション幸』の中に、涼太の言葉だけが着地点を失って漂い続けた。
涼太は狼狽えた。
オレは今、ものすごく失礼なことを言った。たとえ祟られなくても、このあとどんな言葉がこの空気を解きほぐせるのだろう?
あんな馬鹿なことを言ったのは、たぶん、矢田さんの言葉が核心をついていたからだ。図星だったからだ。
涼太は、手を離れてしまった自分の言葉を取り戻そうと、矢田さんから目を逸らして部屋のあちこちに目を泳がせた。
廊下へ続くドアが、少しだけ開いている。・・・・その隙間に、子どもの目があった。
「よ・・・妖怪だって、そんな気持ちは同じだよ。きっと——。」
九郎が、そんなフォローを入れて、彷徨っていた涼太の言葉をコントロールの外れたキャッチボールの球みたいに片手で受け止めた。
「でもね。時々ハメははずさないと息が詰まっちゃうでしょ。ハロウィンパーティーで騒いでた妖怪たちも、誰も演出家の言うことなんか聞いてなかったですよ。演出を担当していた後藤が、それでしばらく落ち込んでたくらいだ。」
九郎はその時のことを思い出して、くすくす笑った。
「ナナシちゃんも・・・、今は幸せなんだと思う。」
笑いを納めてから、九郎が自分のカップにも紅茶を注ぎながら、珍しく語り始めた。
「過去がどうであれ、今ここには『家族』と呼べる人たちがいるもの——。あ、『人』じゃないけど・・・。家族って、血のつながりとかじゃなくて、互いに『大切だ』って思える存在のことじゃないかな。
オレは、ここに来て、ナナシちゃんやヤモさんやヒロくんと暮らしてるうち、家族になるのに人間も妖怪も幽霊も関係ないな——って思えるようになった。」
「それが——」と、矢田さんがまた帽子をひょいと持ち上げた。
「あなたたち母子が、わたしたちにとって『特別』な理由なんですよ。ナナシは幸せですよ、今——。ここではあまりしませんが、薄明界にいる時なんか鼻歌歌ってますからねぇ。(笑)」
「鼻歌?・・・ですか? ナナシちゃんが?」
「ほとんど猫の鳴き声ですがね。」
と矢田さんは破顔した。
涼太が、ほっと救われたような顔をした。それから、急に恥ずかしそうに顔全体を赤くした。
「一度ご両親と一緒にここにいらっしゃったら?」
今まで黙っていた幸子が話の中に入ってきた。
「たぶん、あなたの趣味のことをご両親は知ってはいても、理解はしてらっしゃらないんじゃない? 家族ってね、離れすぎても近づきすぎてもダメなのよ。距離感が大事なの。」
そんなこと、考えてたんだ——。
何も考えてないテンネンみたいに思っていた九郎にとっては、幸子のこんな言葉はちょっと驚きだった。
幸子は続ける。
「人ってみんな違うでしょ? あ、物の怪さんもね。だから、相手を希望通りにしようとしたり、相手の希望通りになろうとしたりしたら、お互い疲れちゃうのよ。
ここの物の怪さんたちは、みんな自分のやりたいようにやってるようでいて、ちゃんとわたしたちのことも大切にしてくれるの。そんな感じが、わたし好きなのよ。
ご両親と一緒に来て、ここでヤモさんたちとお茶でもすれば、きっとお互いに肩の力が抜けるわよ。」
幸子はそんなふうにいっぺんに言って、涼太の顔を覗き込むように見た。
「わしの出番かやぁ——?」
突然明るい声がして、幸子の隣の空間に、ふわっとサンショウウオみたいな顔をした丸々と太った妖怪が現れた。
「あら、ヤモさん。そこにいたの?」
幸子が、まるで近所のおじさんに挨拶するみたいな調子で、隣の変な生き物(?)に笑顔を向けた。
「いっぺんいりゃあ。ここにおるのは、みんないいヤツばっかだで。」
ヤモさんと呼ばれた妖怪の背中に半分隠れるようにして、さっきドアの隙間から覗いていた少年が涼太を見ている。




