08 変転
「羽柴勢右翼、黒田勢が大きく引きます!逆に中央から左翼、さらに前進の模様。」
やや違和感のある報告だ。自分の目で確認するため立ち上がって少し前に出る。
確かに黒田勢が大きく引いて篠山川を超えて戻っている。戻っているが元の配置よりもかなり東寄り、野々垣川方面にスライドしている。中央左翼は物見には前進に感じたのであろうが、あれは斜めに浅くスライドしただけだ。つまり全体に野々垣川方面、東寄りに移動しているのだ。よく見ると後方の秀吉本陣もカニの横歩きの如くじわっと東に動き、街道近くにズレている。
「なるほど、そういう事か…」
本陣付の連絡将校が怪訝な顔をしている。構わず連絡将校の一人を呼び寄せて指示を伝える。
「斎藤勢と溝尾勢へ伝令だ。もうすぐ敵の動きが突撃体制に入るだろうが擬態だ。戦場をかき回すだけで突っ込んでくる事はない。敵の無駄な動きをしっかり狙って削り取ってしまえ…とな。」
伝令が一瞬息を呑んで戸惑っているがすぐに我に返ったのか、飛び出してゆく。聞き返さないのはよく鍛えられている証拠だ。納得はしていないだろうが。
そして別の連絡将校を呼ぶ。
「左翼の光春と松田に伝令だ。半時もすれば敵が引き始めるが釣られるな。秀吉本陣の退却が確認でき次第合図の法螺を鳴らす。その後に思う存分追撃せよ…一時的に距離が離れて逃げられると心配になろうが大丈夫だ。街道で団子になって停滞するのですぐに追いつける…とな。」
この伝令は先の伝令を見ていたので迷うこと無く飛び出した。
しかし出自というのは重要だな。零落していたとは言え、明智の縁者がそこそこ居る光秀と裸一貫から立身した秀吉とで、こうも人材に差があるものとは。後少し人材に余裕があれば、前線を山内や堀尾に任せることもなく、別働隊も組織して本体とは別のルート、ソレこそ但馬経由で撤退も画策できただろうに。今の羽柴勢は時流に乗って業容を急拡大しまくったはいいが、組織の中身がスカスカのベンチャー企業のようだ。秀吉の信用がある間は金貸しも良い顔で接してくるだろうがこの敗戦の後は商人も潮が引くように去っていくだろう。
そうだ、商人と言えばこの戦勝後に小西隆佐を調略するのも有りだな。隆佐自身も使えるが次男の行長が欲しい。経済力を大改革する時間の余裕は糞神のせいで封じられてしまったが、それでも商業主義を導入すれば農本主義の旧態依然たる連中はサクッと飲み込める。光秀が手堅く無借金経営をしてくれていたので、多少水ぶくれ気味に業容拡大しても保つ。畿内を制圧するぐらいまでは水ぶくれさせてもなんとかなるだろう。
その後は…ふふ。俺、光秀はすでに50台半ばのはずだ。その後の時間は無かろうな…
右翼の斎藤利三隊近辺が一見激戦に見える。実際は、秀吉方が自陣付近で左右に走り回り砂埃を巻き上げているだけだ。だが利三が指示通りこの敵兵を狙い撃ちして確実に葬っているようで、次々叫び声が聞こえてくる。案の定、敵全体も東の京都側へじわじわスライドしている。
「敵右翼、黒田隊左翼方面へ離脱の模様!」
「続いて、山内隊も黒田隊に追随!」
始まったな。そろそろ秀吉本体も離脱に入るはずだが…
「敵陣全体が動きます!これは…」
物見が状況を飲み込めず報告出来ないでいる。だが…
「秀吉本陣も動いた。敵が撤退するぞ、今だ!法螺を吹け、全軍押し出せ。我が本陣も敵左翼に圧力をかけるぞ、右前進だ、斎藤利三隊に加勢する。一気に敵の殿を崩して潰走させよ!」
ブオーオー ブ~オ~
戦目付だろうか、戦場全体に響き渡る法螺貝の音が鳴り響く。塹壕と塹壕の後ろに控えていた前線の兵が一斉に立ち上がり突撃態勢に入る。敵の離脱を見守っているだけだった左翼の光春隊はことさら激しく追撃に入っていてすでに篠山川を渡河しつつある。
「敵の秀長隊と蜂須賀隊が射程に入ります!」
「20歩すすんで停止、射撃を開始せよ。前に味方が居る、絶対味方に当てるな、踏みとどまって味方を支えている敵は斎藤など前線の部隊に任せろ。後方で援護している敵の鉄砲や弓兵に狙いを集中しろ!」
「お味方溝尾隊、斎藤隊、優勢の模様!」
当然だ、敵は逃げ腰の上、右翼は本陣も加わり数で圧倒している上鉄砲も段違いに多い。優勢にならねばどうかしている。だが流石に蜂須賀と秀長、あっさり壊滅とは行かないようだ…