62-2 印地(いんじ)打ち?
印地打ち…この言葉も独特です。いしうちが訛ったもの…という説明も一部にはみかけましたが「それ、なんか違うきがする…。」 かなり無理があるのでは?と。ちょこっと調べてみると弥生時代の遺跡からすでに使われていた証拠がでているようです。(考古学はこういう所が凄い。)スリングのような形態のものも日本だけでなくあちこちで出土しているらしく、ごく一般的な戦術だったらしいです。まあ、現代でも数百人が一斉にハンマー投げみたいなものぶん投げてきたら機動隊でもにげないと大被害ですから。鳥獣戯画でも描かれているらしく(これは知らなかった)中世でも普通の戦い方だった模様。
*誤字の訂正ありがとうございます。
大幅に書き直ししているので、今までにも増して間違いが多くなると思いますが、これからもよろしくおねがいします。
「それよりも、利三。各隊に配置されている雑賀・根来、そして甲賀の鉄砲衆に伝えてほしい事がある。」
雑賀・根来・甲賀の鉄砲衆は優先的にライフリングした長射程銃が支給してある。彼らはスナイパーとして活用するため通常の鉄砲足軽とは異なり、数人ずつを一組にして各隊に分散配備してある。
「はっ、して如何に?」
「何れ槍合わせが始まるが、その時には手近の敵を狙わず、足軽組頭以上の者を狙い撃て…と。」
「なるほど。徳川勢の指揮の流れを破壊しようと…」
さすが、官兵衛は狙いに気がついたか。
「ご指示、承りまする…が。あの、それだと結構な時間手練達が撃つこと無く獲物を物色せねばなりませぬが…。」
「利三の懸念は判る。だが此度に限っては、それでも目標を指定する効果が勝るのだ。我ら明智勢や歴戦の宇喜多勢、此度の参戦にあたって精鋭に絞り込んだ丹羽勢などなら、たとえ組頭が撃たれようとも即座に交代で指揮する者が決まっている。だが、この戦の徳川勢はかなり無理な動員をしている。普段戦にでていない者を多数徴兵しているのだ。かれらは皆槍足軽に編入されておる。他に使いようがないのでな。」
「そうか!されば、戦を知るは組頭以上の者だけ、組頭一人を射てば配下の槍足軽三十人ほどが纏めて無力化されるのですなっ!」
「判ったか。一部の精鋭部隊はそうではないだろうが、大方の徳川勢は似たり寄ったりの状況のはずだ。」
「されば、今のお話も含めて伝えまする。そのほうが鉄砲衆も気合が入りましょう。」
利三が指示を伝えに櫓から降りてゆく。多方面に指示せねばならないので多くの使番を集めて一度に説明するのだろう。
「しかし、徳川領の者共、武士も民百姓も、恐るべき我慢強さですな。」
「まったく官兵衛の云う通りよ。普通であれば遠江・三河に軍勢が乱入した時点で即座に軍勢を返さねばならぬ。返さねば必ず脱走兵の山を築き謀反も起きよう。とても美濃でのんびり対陣など出来ぬ。」
「今川の属国時代に散々踏みつけられた経験は無駄では無かったと云う事ですかのう。」
「加えて家康のあの唯ひたすら質素倹約を強いる性格よ。」
「なれば左大弁様、三河衆と家康の相性は良かったと?」
「家康にとってはそうであろうが、三河の者どもは浮かばれぬ。」
そこに利三が戻ってくる。
「何やら、面白そうなお話で御座るな。」
気が付くと、銃声が止んでいる。兵の怒号も消えている。
「徳川勢が完全に止まってその場で盾の影に伏せってしまいました。無駄玉になりますので銃撃も休ませております。」
「そうだったか。徳川方も事前準備は完了したという訳だな。」
「そのようで。徳川勢の別動隊の到着まで最早動きますまい。」
官兵衛と目が合い頷き返す。
「利三。太田定久殿の手勢を正面の長槍隊の直後に展開するように伝えてくれ。展開がおわれば定久殿をこれに。」
「?太田定久…殿で御座るか?」
「太田殿には土橋殿に依頼しておいた新兵器の受領と訓練をお願いしてある。陸戦に使う兵器なので土橋殿とも懇意である太田殿に預けておいた。次の徳川勢の突撃は苛烈なものとなろう故、この新兵器で出鼻を挫く。」
「は、はぁ…と、とにかく手配いたしまする。」
使番が本陣後方の予備隊の群れへ走る。紀州太田勢は紀州でありながら陸戦部隊だ。数は精々数百程度だが領地が雑賀と隣り合わせで火器にも馴染がある。実験部隊としての条件が揃っている。
「漸く出番ですかな、左大弁様。」
「徳川勢、どうやら次の一撃に全てを賭けて来る様子であれば。…で定久殿。例の物はどの程度まで使えますかな。」
「左大弁様ご希望の段階までは仕上がっております。今はさらに精度を上げるべく、工夫中で御座る。」
「ほう。では今の確実な射程と散布界はいかほどに?」
「左大弁様は射程についてはさほど不要との事でしたので、当初のご指示通りの20丈、前後のズレが合わせて3丈程度で御座る。」
20丈は約60m。3丈で9mほどだ。
「おお、散布界が前後片側で2丈を切るとは見事で御座る。」
「は。されど予め試射してこの地で着弾調整せねばなりませぬが。」
「当然ですな。されば、今夜試射をお願い致す。徳川勢も昼間移動したばかり故、突撃は明日以降でござれば。」
「承った。では陣に戻り準備いたしまする。で、本射はいかほど放ちますや?」
「徳川勢が諦めるまで。」
「なに!………左大弁様…それで宜しいので?」
「覚悟の上にて。悪名、汚名、怨念などなど、全てこの左大弁光秀が引き受けまする。」
太田定久が無言で頷き配置に去ってゆく。
「…左大弁様。なにやら太田殿が驚いておられましたが?」
「利三。三河・遠江の石高は十数年3割方落ち込むやもしれぬ。」
「左大弁様。それは致し方ござりませぬぞ。左大弁様自らも話された通り、家康の三河・遠江の兵が我慢強すぎる為で御座れば。」
「官兵衛はそう云うが、三河・遠江の者共には夜叉か羅刹と思えような。この左大弁光秀が。」
その夜、小規模な 印地打ち[石礫による攻撃] が徳川勢最前線を見舞ったが、三方ヶ原の戦いでの小山田信茂勢が実施した印地打ちを模倣した挑発として処理されたのだった。