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光秀、下天の夢を見る  作者: 狸 寝起
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31 賤ヶ岳の戦いの回想

国吉城での手配りを終えて、柴田勝家との決戦が想定される北近江へと向う。史実では賤ヶ岳の戦いと記録される、一連の戦闘が起きた場所だ。

当時、近江と越前を結ぶ道は複数あった。西よりの道から順に


越前-近江 付近街道図

挿絵(By みてみん)


1.白谷(黒河)越

琵琶湖北西、マキノ町当たり(鞆結駅)から白谷、雨谷、公文名、を通り敦賀(松原駅)へ至る、(平安時代に編纂された『延喜式』に記載されている官道とおもわれる。)ほぼ、南北に貫通しているコース。(白谷付近では、先に紹介した若狭から繋がる粟柄越と接続している。)

古代の官道の可能性が高いが、地図でみてもそんな場所通れるの?と思えるルートであり、現代では集落も殆ど見当たらない山中を貫通している。粟柄越同様に軍勢が通るような道ではないだろう。


2.西近江路(七里半越)

琵琶湖北岸の海津から山中、疋田、道口を通り敦賀(松原駅)へ至るコース。

上手く谷から谷を繋いでいて地図で見ても納得できるルートであり、こちらが古代の官道であると云う人も居るようだが…(それでは鞆結駅を設けている場所がおかしいでしょ…と俺は思う。)

西近江路は当時でも主要道路であり十分軍勢の移動も考えられるコースだ。


3.新道野越しんどうのごえ

琵琶湖北岸の大浦から山門、新道野、曽々木とぐるっとまわって疋田にでて西近江路に合流するコース。途中、新道野の西にある深坂峠を突破するほうが直線的に疋田にでられるが、深坂峠の難所を大きく迂回している。

このコースは大浦から山門あたりまでは谷を利用しているがその先新道野までは険しい山中を通っていて白谷(黒河)越同様に軍勢が通るような道ではないだろう。無理すればなんとかなるかも…だが。


4.塩津街道(深阪越)

琵琶湖北岸の塩津から沓掛を通り深阪峠を突破して北北西に直線的に疋田に出て西近江路に合流するコース。途中、深阪峠の難所を避けて新道野越のコースを迂回する事も多かったと云われている。

このコースも上手く谷を利用していて地図で見ても通りそうな感じのルートであり、実際によく利用されたのだろう。使いやすい道だったからこそ、塩津街道という名前も残ったと思われる。軍勢も勿論通ったであろう。


5.東近江路(北国街道)

中山道の鳥居本から分岐して琵琶湖東岸を北上、木之本、余呉湖東岸、柳ケ瀬、栃ノ木峠を経て今庄に至るコース。

より古い時代からあった道らしいが、柴田勝家が信長の安土城と居城の北ノ庄城を直線的に結ぶために大々的に改修して幅三間に広げたという軍用道路だ。なんと側溝まで作っていたというから驚きだ。(ちなみに、2021年栗東市で古代の東海道と思われる遺跡が発見されたが、脅威の幅15m近くの直線状の道で側溝もあるという。古代のヤマト王権侮れん…)この東近江路は柳ヶ瀬断層の上に作られているため峡谷を直線的に走ることになる。この時代では最もよく整備されたコースであり、賤ヶ岳の戦いの主戦場になったのも頷ける。


以上、ざっと5本の道がある。そしてこの当時、史実では織田信孝が岐阜城、滝川一益が伊勢長島城で秀吉と敵対しており秀吉は得意の機動戦でこれらを各個撃破、さらに湖北をあえて手薄にする事で勝家勢を釣り出し急速反転して勝家勢を撃破した…これが史実での賤ヶ岳の合戦経緯だ。

この秀吉の取った作戦は、実はかなり危険を孕んでいる。


1.予定通りの機動が道中の障害など(河の氾濫や大雨など)で間に合わず湖北で味方の守備隊が一方的に撃破される可能性。

2.織田信孝勢に滝川一益が加勢して各個撃破できず美濃で日時を取られる可能性。

3.織田信孝が降伏せず、最後の一兵まで岐阜城で徹底抗戦し大返しが間に合わない可能性。


おそらく、秀吉は勢いに乗って勝たねばならぬ時期だったため速戦即決が必要で、あえて危険を冒してでもこのようにしたのだろう。実際、史実では西国も固めきれず、四国も雑賀も敵対行動をしている。

だが、この世界では西国にあからさまに敵対する勢力は無く、雑賀も味方だ。危険を冒す必要はなく美濃や伊勢の敵対勢力がでてきても近江への侵入を防げばよいだけに変わっている。

よって、野戦築城しておく場所は


1.関ヶ原から中山道を美濃勢が出てきた場合の中山道近江側の隘路の出口。今須付近。

2.関ヶ原から北国脇往還を美濃勢が出てきた場合の近江側の隘路の出口。現代の藤川児童公園がある場所の東付近。

3.史実の賤ヶ岳戦場付近(余呉湖周辺)

4.可能性は薄いが、万が一に別働隊が①②③を南下した場合の供えで海津付近。

(この場合、国吉城から敦賀を押さえれば、別働隊は山中に袋の鼠で全滅必至だが…が、三国志の魏延 が献策した子午谷突破などこの類の作戦であり、猛将揃いの勝家勢であれば、ありえるかも。)


以上、4箇所となる。


しかしこうやって賤ヶ岳の戦いを整理してみると、秀吉のとった作戦は実にさんとしかいいようがない。かりに、大返しが予定通りでも勝家が①②③のいずれかに万余の別働隊を分派していれば(その場合余呉湖方面は全く突出してこず専守防衛のはず。)秀吉の目論見は完全に破綻していたのではないか?まあ、それでも前田利家が寝返ればひっくり返るとは言え、圧倒的に勝家優勢では寝返るに寝返られない場合も多かろう。史実で評論されているほど秀吉楽勝ではなかったはずなのだ。そもそも、大勢力同士が決戦に成る事自体、双方が勝ち目が有ると思っているから決戦に成るのだ。単純に負けたほうがヘボいと後世の評論家が切り捨てるというなら、その方々は根本的になにかが欠落しているのではないだろうか。

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