10 降伏
俺の指示が届いたかどうか、微妙なタイミングで敵の潰走が始まる。
まあ、今まで良く耐えたと言って良いだろう。しかし、黒田官兵衛、流石の姑息さだな。難しい部署を受け持った装いではあるが、実際には真っ先に撤退できる安全な受け持ちだ。あるいは秀長の計らいやもしれんが…
「羽柴勢殿軍を完全に包囲しました!」
少数の敵が血路を開いて脱走したようだが、あの中に秀長は居るまい。正勝は居るやもしれんが…。イノシシのようなほんの一部の剛勇の者たちの脱走だ、無理に相手する意味はない。まあ案外、清正だの正則だのがあの中に居たかもしれんがどうでもよい。
「利三様が降伏勧告をなさる模様…」
戦場から喧騒が去り、不自然な静寂が戻っている。双方から数名ずつが歩み寄り、何事か言葉を交わしている。包囲に加わらなかった光春隊と松田政近の部隊はすでに追撃戦にはいっており、視界から消えている。
「羽柴勢殿軍降伏しました。率いる将は羽柴秀長!」
やはりな。こういう場面では個々人の武勇が生死に直結する。自分では逃げ切れないと悟って蜂須賀正勝を逃したのだろう。それに秀長自身にまだ利用価値があるので殺されることはない…ぐらいは読んでいるやもしれぬ。
「羽柴秀長殿をこれへ…」
伝令が斎藤利三の元に走っていく。我が本陣ではテキパキと謁見の準備が整えられている。こういうあたりも良く鍛えられているな。信長の無茶振りを長年捌いてきていただけの事はある。
程なくして斎藤利三に連れられた秀長がやってくる。鎧具足もズタズタでよくも戦死せずに生きていたものだ。
「床机を秀長殿にも…」
「…かたじけない…」
「お怪我の具合は?」
「軽傷ゆえ、お気遣いは無用に。」
「…では改めて、お久しゅうござるな。お互い信長公には振り回されましたな。」
「…。恩こそあれ、仇はござらぬ。」
「左様。この光秀には都に隣接した坂本、さらに丹波に領地を得る大恩を賜った。それが仇になり申した。」
「?」
「秀長殿ですら、ご理解出来ぬ。流石信長殿、周到なことよ。」
「…何を云われて居るのやら…」
「信長殿は畿内周辺を全て一族の領地とする構想であった。そこで邪魔になるのが、我が坂本と丹波。」
「!」
「聴いておられぬか?坂本と丹波を召し上げ、石見に移封という話だが。」
「なっ!」
「さて、筑前殿がもしも長浜と播磨を召し上げられ、筑後か大隅に移封との沙汰を受けられたなら、如何致したであろうか。」
実直な秀長が額に脂汗を浮かべている。異父兄の秀吉にもしもその沙汰が下っていたなら…と想像しているのだろう。
「…げ、現実に起きなかった事を詮索しても詮無きこと…」
「そうよな。長浜も播磨も、我が坂本と丹波よりわずかに都から遠い。ゆえにまずはこの明智が的になり申した。筑前殿は運が良い。」
「…」
「いや、詮無き話を長々と申しましたな。では本題に入ろうか。秀長殿は我に下る気はござるまい。」
「…言うまでもない。」
「我が明智勢はすでに羽柴勢を猛追中であるが、実はすでに但馬接収に兵を分けた。」
「なっ!」
「五千ほどの兵となって一両日中に但馬になだれ込もう。」
「左様な仕儀、我が兄筑前が黙って見過ごしはせぬ。たとえ丹波勢が猛追しようが金ケ崎と同じこと。捉えられはせぬ。」
「筑前殿は我が近江勢が十面埋伏の計をもって山城全域でお出迎えする。すでに山の民の繋がつけてある。ああ、そういえば筑前殿も山の民と懇意でござったな。」
「!山の民をだと!」
「筑前殿が首に成るかどうかは運次第。我にもわからぬ。だが播磨に戻るのは骨が折れようなあ。」
「く、くっ…」
「ふふ。まあ、運の良い筑前殿の事ゆえ、首にはなるまい。土民に紛れようとも播磨まで帰り着く…だろうとこの日向も考えている。だが、姫路に帰り着いた所でなんとする?すでに姫路城の倉は空、この大敗で商家の信用も無くなり借財もできぬ。軍の興しようがござるまい。」
「…」
「そこで問題になるのが孤立無援の但馬の守備兵達でござるよ。」
「…但馬の守兵に開城させよ…と。」
「いかにも。お互い無用の殺生は避けたいところ。だが秀長殿の薫陶を受けた兵達ならば最期の一人まで抵抗しよう。彼らを救えるのは秀長殿、ご貴殿のみであれば。」
秀長が沈思している。理屈では開城させたほうが良いと理解はできているはずだ。たとえ険阻な山城に籠もろうが援軍の無い籠城戦など無意味なのだ。秀吉にしても仕方ないことと許すはずだ。だがみすみす但馬を渡す事を感情が許さないのだろう。
「条件は?」
「無傷で城を明け渡す事。城兵の播磨撤退は黙認する。住民を連れ去る事は許さぬ。そして、秀長殿は三年の間、客将兼人質として我もとで働いていただく。」
これには斎藤利三も目を丸くしている。三年働けば秀吉のもとに返すと言っているのだ。
「…三年…か…」
「左様。三年。」
「三年あれば天下の大勢は定まっている…という読みか…」
秀長が人質であれば秀吉は手出しできない。三年秀吉はただただ播磨を固守するだけになる。明智勢にとっては播磨と備前に壁を造ったも同然の状況ができ、必然的に摂津も明智の支配下に落ち着くだろう。但馬を押さえれば孤立した因幡伯耆は毛利の吉川元春とで分割も視野に入る。さらに場合によっては四国の長宗我部との連携が現実のものとなりうる。どうだ、我が渾身の一手、秀長は如何に読み解く?。
「三年の件は飲む。明智殿の元で働くのも是としよう。だが知っての通り我にさほどの武勇はない。戦場での槍働きはせぬ。」
ふむ。三年の期限切れ間際に戦場ですり潰される恐れがあると見たか。そんな無駄な事はせぬがな。史実では秀長は紀伊に続き大和と他所者が治めにくい地を見事に治めている。内政こそ秀長の長所なのだ。どこでも良いし誰の配下でも良い、難治の地を秀長に治めさせて、落ち着かせてから貰い受けるのが残り時間の少ない俺にとって都合がいい。
「うむ。なにか誤解がありそうだが、まあ良い。戦地に同行してもらう事になっても本陣で観戦だけだ、それなら異存はあるまい?」
秀長が頷く。
「よし、話は纏まった。では早速我が手の者とともに但馬へ立ってもらおう。怪我もあれば具足も解き、手当の後にゆるゆると向かってくれ。なに、貞興も黒井城で軍勢を再編するであろうからそれぐらいの時間はある。」
「光秀殿は来られぬのだな。では貴殿は何処に?」
「儂か、そうよな、まずは洞ヶ峠で摂津と大和を観望するとしようか。大和郡山城は見えるはずもないが筒井が蜂の巣を突付いたように狼狽える様などは見れようて。」
筒井順慶は光秀組下の大名で事実上の部下に近かったが山崎の合戦前に居城の大和郡山城から動かず形勢を観望していた。ま、途中までは出てきたとの噂もあったがな。羽柴勢を撃退した今、明智勢を臨戦態勢のまま大和国境へ進めれば戦下手の筒井順慶はさぞや慌てる事だろう。
「近江・山城で飽き足らず摂津に大和!………まるで信長様のような神速の手配り。…光秀殿…。そなた、本当に儂が知る光秀殿なのか?儂の知る光秀殿は手堅く足元を固め、与えられた課題を着実にこなす有能な将なれど、斯様に急拡大を図り大望を抱くような感じではなかったが…。それとも実は機を見るに敏なれど、信長様の元ではその姿を謀っていたというのか…。」
「はてさて、それは筑前殿にこそ当て嵌まろうて。よもやあのような乾坤一擲の大返しを本当に実行するとはな。よほどの大望が無ければなせる技ではあるまいに。」
畿内に異変があればすぐさま引き返せるように、それなりの準備があったからこその大返しだ。当然信長の許可なく対毛利戦線を和睦する予定も含んで動いていた事になる。信長の意思とは全く相容れない行動だ。
「…年齢を重ね先が見えつつ有る今、時の流れが兄も光秀殿も変えてしまった…そういうことか。」
「左様。本能寺は我がなさずとも、何れ誰かが決行したであろうな。さしずめ徳川殿あたりであろうか。」
「なに?徳川…だと?」
「おやおや、秀長殿がその様子では筑前殿も徳川殿の野望に気がついておらぬと見える。此度の筑前殿の負け戦、かえって筑前殿を救ったやも知れぬな。我を打倒し時の人になっておれば必ずや徳川に足を掬われた事であろう。」
「…徳川…までも…か…。」
その後、抜け殻のようになった秀長は我が手の者につれられて但馬に立っていった。まあ仕方がない。秀長殿や亡き竹中半兵衛のような御仁こそが希少なのだ。その2人を得た秀吉が史実で成り上がったのも頷けるということだ。
さて、いくら近江勢が待ち構えているとは言え、丹波からも押し出して羽柴勢を削っておかねばな。光春達とあまりに離れるのも宜しくない。
「我らも山城へ追撃するぞ、ゆるりとな。」