00 山崎の戦いについて
山崎の戦いの概説の回です。自分なりの意見も入っています。図表の永荒沼や巨椋池は現代では埋められており平地です。
山崎の戦い。
案外取り上げられることが少なく、秀吉の出世街道の偉業の一コマ扱いされる場合が多い戦いだ。
山崎は地名で摂津と山城の境界付近。同名の町も付近にある。
この永荒沼の南西あたりが山崎で、天王山と向かいの男山に挟まれて狭くなっている地形がある。
ここらで本能寺の変を聞きつけて?大返ししてきた羽柴勢と本能寺の変以後に近江を制圧した明智勢が激突、秀吉大勝利、光秀ヘボい…と世に喧伝されている、それが山崎の戦いである。
俗に天王山を秀吉に抑えられたのが敗因だ…だの
本能寺の変以後、近江や京でぐだぐだやっていた光秀が阿呆…だの
秀吉が大返ししてくるのが光秀の想定外だった…だの
みごとに勝者のプロパガンダにズッポリ嵌った通説がまかり通っている。
が、ちょっと待った。
下の図を見てもらいたい。
人数が少ない明智勢が最も狭くなっている図の赤いラインで迎撃したのであれば、まだ理解できる。
が実際はだいぶ地形が開けた紫のラインで迎撃?している。
この異常さを世の歴史の大家は単純に光秀が出遅れたとして片付けているが、
それ、光秀馬鹿にしすぎでは?
あまり知られていないがこの戦いの起きるずっと前に光秀は男山や天王山砦に配下を派遣していたようだ。
当時大阪には四国遠征用の織田信孝を名目上の大将にした丹羽長秀の軍勢が編成中だった。
この軍勢の去就は不明とは言え、信長三男の信孝が大将だから光秀への敵対行動が当然予想できる訳で光秀が大阪方面を無警戒にしていたはずがない。
天王山砦や男山の兵は南西方面の敵対勢力への監視役だったと考えられる。
だが、秀吉が摂津に到着して山崎に接近すると、光秀はこの監視役を引き上げさせている。
そして悠々と秀吉は山崎の隘路をぬけだして永荒沼の北にでてくる。
その過程で一応念の為、天王山も抑えているし永荒沼の南東の湿地を迂回して出る別働隊(池田恒興など)も派遣している。
その間明智側はわざわざ山崎の隘路からだいぶ引いた円明寺川に一応の防衛ライン(紫のライン)を造り、光秀本陣はその後方、恵解山古墳跡に置いた…とういうか、恵解山古墳跡の本陣の前にとりあえず戦闘部隊を展開した。小川でさして要害でもない円明寺川を前に…
おかしすぎるではござらぬか?オノオノガタ。
秀吉勢に隘路をノーダメージで通させ、物見も引き上げ後方の開けた場所で待っている事実から想定できる結論、それは
-光秀は秀吉に嵌められていた-
である。
恐らく光秀は秀吉となんらかの交渉を持ち、手を組める余地があるかのように秀吉に嵌められていたのだろう。だから、隘路も本気で塞がなかったし、防衛線も形だけでおざなりの配置だった。
(あるいは、秀吉の真意に気がついて大慌てで防衛線を取り敢えず造った。)
そこを秀吉勢が急襲したというわけで、開戦早々の摂津衆の中川清秀、高山右近の異常な突撃も説明か付く。
斯様に山崎の戦いは怪しい節が多々あるのだが、この物語では、敢えてそういった疑問点に目を伏せて世に伝わる史実通りの出だしを前提に幕をあける事にする。