あの子が
今日の世界史は中世ヨーロッパだ。隣の平山ゆいが教科書を見せて聞いてきた。
「どこまで進んでるの?」
授業中に声を出すと当てられるが、無視するのも良くないと思い、私は平山のノートに「インノケンティウス3世のところ」「声出したら当てられるよ」とだけ書き、転校生の平山に伝えた。
そうすると平山は新しい質問をかいたノートを見せてきた。「あなたの名前はなーに?」
これを読んだとき、となりのトトロのメイちゃんの声で再生された。伸ばし棒ムカつく。
でも、ムカつく感情ほど無駄なものもない。冷静に冷淡に、黒板につらつらと書かれる文字を見ながら、淡々と答えた。「鈴木晴香、よろしくね」
ノートを返して平山をみると、にっこり笑った。細い目がより一層細くなった。それから平山は黒板に羅列された文字を丁寧にペンを使いながら書き写す作業へと戻っていった。
名前、聞かれたの久しぶりかもしれない。みんな世界史上の人物の名前はたくさん覚えるのに、私の名前を知ってる人はこのクラスにはいないと思う。インノケンティウス3世。カタカナはズルい。
偉人の名前が私の後の人生にどれほど影響するかは分からない。それなら覚える必要もないのではないか。それと私の名前が覚えられていないことは同じことである、と冷ややかに見る癖が私にはついていた。
平山は人気だった。転校生というものはそういうものである。私は転校したことはないからわからないけど、小説で読んだことがある。矢継ぎ早に名前を聞かれて、休み時間などほぼないに等しい人気者だった。まあ、羨ましいと思わないんだけど。昼ご飯もクラスの中心的な女子グループ、中村夏菜子グループがやってきて、一緒にお弁当を食べ、クラスの秩序を学んでいた。
平山の様子がおかしいと感じたのは昼休み後の授業だった。
退屈な倫理の授業。
ふと平山を見る。先ほどとは違い、何か落ち着かない。ペンをもたない左手はノートを抑えながらも、時々新品のスカートを触る。額を見ると少し汗を書いている。足も貧乏ゆすりをしている。
一度気になったら授業に身が入らない。平山は何をしているのだろう。もしかして超能力者で何かしらの儀式をしているのだろうか。いや、そんなことあるわけない。小説の読みすぎだ。でも、こんなことめったにないし。
私は、いつもの私ならしないだろう、何故だろうか、衝動的に平山にノートで聞いていた。「どうかしたの?」
そうすると平山はこちらの顔を見て、涙目になりながら、ノートを返してきた。「トイレに行きたいの」
その文字は先ほどとは打って変わって拙い文字だった。トイレに行きたいからモジモジしてたのか。なんだ。超能力者じゃないのか。
「先生に言えば?」
「恥ずかしくて言えない」
平山はトイレを意識したことで、切羽詰まってきたのか、左手は諸にスカートを抑えている。そのため、新品のスカートにはかなりのシワが入っている。彼女は周囲には平然を装おうとしているが、知っているこちらから見るとトイレ行きたいのがバレバレである。それでも涙目になりながらこちらに訴えてきた。「どうしよう」
私だって授業中に発言できるほどの人ではない。
だから平山の気持ちがわかる。でも、代わりに言えるほどの勇気はない。
「あと三十分だから、なんとか我慢頑張れ」
そう書いてノートを返した。久々に人に関心を持った。そして、人のことを心配する気持ちも久々だった。
平山の様子がどんどんおかしくなっていく。