第一章9 アルカディシア「もう一人のセル」
「セルさまあああああああああっ!」
扉が打ちつけられるや否や、その衝撃音と共に叫び声が響いた。少年が背後にある巨大な妖精像の台座の方を振り返った時にはすでに遅かった。
「セル様! セル様! セルさまああああああああ!」
頭上から近づいてくる少女の声と服が風に靡く音が音を増して近づいてくる。というより、それは空から降って来た。
「セルさまあっ」
少年が心の準備をする間もなく現れた幼女は少年の身体を仰向けに押し倒し……その勢いで祭壇から階段に落ちそうになる頭を少年は必死で耐える。胸元にピタリと沿う形で、少年の左手を自身の両手で握りしめて顔を覗かせる。ブロンドのショートカットに童顔の幼い少女。
「セル様セル様セル様セル様このレナード心配で心配でお目覚めになって何よりですさあもっとよくお顔をお見せになってくださいまし」
興奮し呼吸の荒い顔が少年の頬にすり寄られる。助けを乞うように赤髪の少女に視線を向けるも、無表情で一瞥されるのみ。その二人に視線を交差させて少年は状況を整理しようとする。
見知らぬ二人は腹部にコルセットのついたドレス調の服を着ており、赤髪の少女が民族衣装風の濃い緋色のワンピースになのに対し、自身をレナードと名乗るこの幼女は、白を基調にした貴族御用達と思えるような荘厳なドレスを着ている。
「セルさまセルさまセルさまセルさまセルさまセルさまセルさま――」
「ちょっと、まっ」
「いいえ、待ちません! このレナードセル様のことが心配で気が狂ってしまうほどでしたのよ! だからこそお目覚めになった今! セル様にお触れすることで正常な状態を」
「僕はセルじゃないっ」
一瞬の沈黙も束の間、再びレナードの鼻息が首元に吹き付けられる。
「またまたぁ~セル様はいつからそんなお惚けを口にするようになったのですかあ? そんなことを口になさっても身体は正直なのですよ!」
「ちょ、な」
レナードが微笑みながらシルクの艶のある黄土色のローブを取り去ろうとする。
「やはり……ない、か」
急に真顔になったレナードの重たい声音が深刻さを物語っていた。
「レナード様、私の記憶干渉能力を使いました。しかし、首元のギルドの紋章も元には……それに身体にあったはずの癒えぬ傷跡も、何一つ初めから存在しないのです」
レナードの碧眼が反対側の首元に向けられる。少年が胸元を隠そうと上着を引き寄せるも微動だにしない。逃げ出そうにも幼い体からは想像もつかない体重のせいで動くこともできない。
「しかしエリスよ、髪色はともかく、セル様ではないか」
「……はい、ですが、私のこともわからないようで……記憶を、無くしているようです」
「そうか、つまり記憶を無くしたセル様だと?」
「いえ、それは……というよりレナード様、記憶接続をしているのですからすでにセル様の声は届いているのではないですか?」
「うむ。届いているとも言えるし、届いておらんとも言える。ただ今はセル様と仮定してこのも防備な身体を味わうほかないと心得ておる」
「…………」
レナードと呼ばれた幼女の手首にヴァイオレットの光が複雑に構築されながら分解されていく。その手がうねりを帯びて少年の胸板を這っていった。少年がひっと悲鳴を上げた。
「あの、レナード様、大丈夫でしょうか?」
「何がじゃ」
「その……お鼻から大量の出血が………」
「うむ、問題ない。これで正常じゃ」
レナードの鼻から大量の血の塊が少年に胸元に打ち付けられる。その尋常ではない量の感触を直に胸に受けた少年が絶句する。にやけるレナードは自らの手で血を止める様子もない。
「考えて見るがいい……今までこのレナードがセル様の身ぐるみを剥がそうとしてうまくいった試しがあったか! 裸体を拝むことがあってもこうして自由に蹂躙することができたか、今こうして起きている生理現象はむしろ当然なのだ!」
「……確かにそうかもしれませんが」
エリスと呼ばれた少女が表情一つ変えないまま目を細めた。
興奮して息を荒げる幼女を前に、少年が肘をついて起き上がろうとする。自身の胸元からカーペットに深紅の色を上塗りしていく血を見た少年が眩暈に襲われ、レナードの肩に寄りかかる形となった。幼女の背中を片手で握りしめ、ゆっくりを息を吐いた少年が顔を上げてレナードの顔を間近で見つめた。
途端に動きの止まったレナードの顔が微塵も動かない程に硬直していた。
「おーい! セルが起きたんだって? ったく、レナードのやつ、よりにもよってこいつを置いて行くんじゃねーよ」
レナードと同じく妖精像の背後から現れたのは、頭の後ろで手を組んだ長身の、金髪に全身銀の鎧を纏った騎士と、忍び装束にも似た東洋の服を着た深緑の髪を降ろした女性だった。
「黙れ、殺すぞ」
「あーはいはい、で、ありゃだれだ?」
騎士が背負った大剣に手をかけつつ、左指で少年を指さした。
「セル様だ、使用人がセル様の髪が漆黒に染まっていたと言っていただろうが」
鋭い深緑の瞳が長身の騎士を睨みつける。腰の先まで伸びている深緑の髪は毛先で束になっており、黄土色の細い帯で纏められている。襟もとから真下に黄金の刺繍が入った胸元が大きく開いた漆黒の上着を纏い、肌着にはロシアンブルーのタイツ地の服を着こんでいる。腰にまかれた黒のスカーフは左右非対称で左足が露わになっていた。腰にはベルトが巻かれており、その両脇に短剣が鎮座している。
「使用人ってだれだ?」
「使用人の名前などいちいち覚えていない」
「なら、信用できないなあー」
「何が言いたい。使用人が信用できないなら、雇い主であるセル様を信用できないということでお前を殺す」
「そうは言ってねーだろー。緊急事態なんだからどこに敵がいるかわからないってことをよー」
「ならばこのギルドに容易く侵入者を向かい入れているというレナード様に対する侮辱としてお前を殺す」
「あのなー、ほんと話の通じないのなお前」
「話が通じないのは貴様だろうが阿呆うめ。そして、私への侮辱としてお前を殺す」
「やんのか?」
「殺す」
「ルバート、かざきり、落ち着いてください」
エリスが立ち上がって二人の会話を止める。赤髪の一部が忙しなくピョンと跳ねた。
「エリス様――レナード様が先ほどから微動だにしませんが、というよりなんだこの血は!」
「何やってんだー、あいつ?」
レナードは相変わらず硬直したまま意識を失っていた。訝しむかざきりが少年の顔を一瞥した後、少年の右側で跪く。
「……セル様、その身の双剣の蛇星として御許に侍りつかまつれば、事ここに及ぶまでの己の無力さにただ頭を下げるのみ。同じ過ちは二度とせぬゆえ、今はご無事であらせられうことを欣幸に先んずれば、どうかお許しいただきたい」
忠義を尽くすかざきりを前に、少年は口を開こうにも状況が全く呑み込めない様子。
「どうなってんだこりゃ、セルじゃねえか。セルにうり二つ」
ルバートは右手を頭の後ろにあてたまま左手で自身の顎を触り、直立し見下ろしていた。
「うり二つだと? 貴様我等が主の前で何を呑気に突っ立っている」
「そう言われてもなー。エリス、これ本当にセルで間違いないんだよなー?」
硬直したままのレナードの様子を窺っていたエリスは立ち上がって胸に手を添える。
「貴様ッ! セル様と御呼びしろとあれほど言っているだろうが!」
「記憶が、損失している、ようです。詳しいことは、レナード様でないと……」
苦しそうに弱弱しくも透き通った声でエリスは言った。その言葉にかざきり視線がより一層鋭くなる。
「おいレナード、どうなってんだこりゃ」
「レナード様。だろうがッ殺すぞ」
レナードから返事はない。大量の血。硬直したままの様子を見て、かざきりが身に纏う凄まじい殺気に少年が肩を震わた。
「なんだかめんどくせえことになってんなー」
刹那――少年の前からレナードが消え、入れ替わるように現れたかざきりが深緑の瞳で少年を見下ろした。
「貴様は誰だ」
「誰って、セルじゃなかったのかよ。髪は黒いけど」
「黙っていろ」
かざきりのルバートを射殺すような剣幕に少年は息を呑んだ。
「青芝、星汰」
自らの姓を名乗る聞きなれない名前に、ルバートが口を開け、かざきりが眉をひそめた。
「僕はセルじゃない」
かざきりが消え、星汰の顔が床に打ち付けられた。星汰の右手首が捻られて背中で固定される。右膝で背を、左膝で左腕を拘束したかざきりが左手に握られた短剣を星汰の右首筋にぴたりと固定させる。
「――っ!」
「おい! 何やってんだ!」
険しい表情を浮かべたルバートの隣で、レナードを後ろから抱きしめるようにして見守っていたエリスが身を乗り出そうとする。
「こいつはセル様ではない」
見開かれた鋭い眼光には、人と人が対峙する上ではおよそ宿らない殺意があった。
「だとしても、エリスが記憶の損失があるって言ってただろ」
「損失――というレベルではない。これはまるきし記憶を失っているというレベルだ。仮にそうだとして、こいつには上書きされた人格が備わっている。その時点でセル様かどうかより、こいつは危険人物ということになる。それに、レナード様を見ろ、血を流しいてる」
かざきりの言葉にルバートは硬直したレナードを見た。両目から血を流し、鼻から大量の血を流していた。吐血さえもしているようにも思えるが、それが単に鼻血が口元に垂れただけなのかどうかは本人にしか知る由もない。
「いや、これはおまえ」
「何らかの記憶干渉による脳内損傷――もしこいつがセル様を装ってレナード様に近づいたのなら……もしセル様が記憶を消されたのなら、それを主として見紛うのは当然のこと」
苦渋を舐める表情のかざきり。張りつめる空気の中、星汰は首に触れる刃物の感触に思わず息を呑み込んだ。
「だとしてもなー、簡単にギルドに侵入して、レナードまでやるっていうのはいくら何でも出来すぎだろー、それに記憶干渉を使えばギルドの探知でバレる。セルの顔が記憶干渉能力による記憶偽造じゃないなら、どう見たってセルだろ。髪色は違うけどなー」
「人の話を理解しようとしない阿保め――古書にこの世には少なくとも三人は自分と同じ顔の誰かが居ると書いてあった」
「……そんなの聞いたこともないけどなあ」
「ちっ、阿保にはわからん話だったな。それと何度言えばわかる。レナード様だ! 様を付けて呼べと言っているだろうが!」
頭上で交わされるやり取りの中、星汰は首元の刃のせいで口も迂闊に開けない。
「レナード早く起きろよなー、このままじゃあ面倒なことになりそうだぜ」
「王国の者に何を吹き込まれた。何の目的があってセル様を装ったのか話せ、でなければ今すぐその顔の偽の皮、綺麗に剥がしてやるぞ」
更に近づく刃物に少しでも首を離そうとするも、僅かにズレた分だけ刃物が追ってくる。言葉を発しようにも愚か、僅かなズレが生じれば鋭利な刃が確実に首の皮を切り裂いていた。
「目が、覚めたら……風呂場に……居て」
「そうか、次は簡単な止血では済まない」
「――っ」
首から血が滴る感覚を感じ、星汰のひねられた腕の骨が悲鳴をあげた。叫び声を出す僅かな動きでさえ、ぴたりと添えられる刃によって禁じられていた。
「おい、それ以上はやめろ。怪我をさせるな」
「怪我で済めばいいがな」
「はあ……仕方ねえなー。エリス、レナードに記憶干渉能力を頼めるか」
エリスは自身の右耳に髪を掛けて、レナードの左首の髪を後ろに回し、落ちないように右手で摘むと、白い首元に顔を近付けた。
「エリス様――レナード様の記憶精査がなければ、敵の記憶干渉能力によってレナード様の脳が一時的に意識下の機能を停止していた場合、レナード様による自衛を逃れた何者かの記憶干渉能力がエリス様に及ぶ危険があります」
「…………かざきりは何か勘違いをしています。これはただ、血を失い過ぎたことによる……或いはただのショック症状です――記憶回帰」
目を赤く光らせたエリスがレナードの首に噛みついた。しばらくして、吐息を吐きながらゆっくりとレナードの首元から口を離す。小さく尖った八重歯から唾液が細い糸となって途切れた。
「貴様の勝手な判断でエリス様に記憶干渉能力をつかわせるなど、何様のつもりだ?」
「緊急事態だからなー、まあ見てろ」
かざきりの苛立ちをルバートは慣れた様子で受け流す。硬直していたレナードが目を見開いた。レナードは狂気の如く瞠目し、勢いよく天井を仰ぎ見る。
「くあっ、っ!」
「くあっ、じゃねえよ……」
「レナード様ッ!」
呆れるルバートとは対照的に、瞳を輝かせたかざきりが星汰からレナードの元へ身を乗り出す。星汰の元へエリスが駆け寄り首元に手を添える。
「ここは、そうかあたくし、セル様が目覚めて」
「レナード様! 一体何があったのかお聞かせくださいませ」
「かざきり、星剣を納めよ!」
かざきりは短剣を納めようとするも思い留まった。
「しかしレナード様! この者はセル様ではないと」
「いいから従いまし!」
「はッ!」
かざきりがレナードの右側へ膝を着く。その背後に居たエリスが星汰の元へ歩み寄った。
起き上がろうとする星汰を支え、エリスが流血する首元に手を添えた。
「しかし、どういうことなのでしょうレナード様、これがセル様というのは」
納得できないかざきりが腰に刀を納めるも、依然として警戒したままでいる。
「私にはセル様と普段から記憶共有をしているせいか、セル様の突飛的感覚が伝うことがあるの、例えば、セル様が眠りから目を覚まされた時、セル様が記憶干渉能力を発動させた時、セル様の意識が感覚として私の中に伝わるのよ」
レナードの話にかざきりは感服したように敬意を表していたが、レナードの左隣で聞いていたルバートは腑に落ちない様子で首を傾げていた。
「それではこいつ――このお方はセル様にございますか?」
かざきりの問にレナードは顔を曇らせる。先ほどまで血走っていた目は今では氷のように冷たいまなざしを帯び、少年を見下ろしていた。
「それが問題なのよ……けれど、このセル様は、むふふ」
鼻を抑えて出血を止めるレナード。
「お前もしかして、セルがかっこよすぎて気絶するあれになってたんだろ」
ルバートの言葉にレナードが再び目を見開いて、ハッと顔を上げる。身長差は実に一メートルはあるだろうか。ルバートの言葉にかざきりが疑問を呈する。
「おい貴様ぁ? レナード様が話をしている最中になんなんだ? 殺す」
「お前は知らねーかもしれねーが、こいつたまーにセル様が頭を撫でたりしただけで、興奮して気絶するんだよ」
「ルバート! 嘘を吹き散らかすんじゃないわよっ!」
「……本当なのですかレナード様?」
かざきりが慌てて尋ねるとレナードは黙ったまま答えない。その様子から肯定であると判断したかざきりが驚きに瞳を光で滾らせる。
「信じられん! セル様が頭を撫でるだとっ!」
「いや、驚くところそこじゃねえだろ。まあ、そこも驚くところではあるが、だからたまーにだ、他はセル様の発言がかっこよすぎてとかだったか?」
「ルバート! 嘘を吹き散らかすんじゃないわよっ!」
ルバートが過去の似たような出来事を問いただす。否定はできないとばかりにレナードは黙ったまま沈黙していた。
「それで、今回はどんなセル様に気絶したんだよ」
「それが違うのよ……」
「はあ?」
神妙な顔つきで返答をしたレナードにルバートは不意を突かれる。
「このセル様は空なのよ」
「空? ……確認しときたいんだけどよー、セルで間違いはないんだな?」
ルバートは後ろに頭の後ろで両手を組んだまま、星汰とレナードを交互に見た。
「そのはずなのだけれど、違うのよ」
レナードの神妙な顔つきにルバートとかざきりが押し黙る。
「彼の中にはちゃんと別の……いいえ、ですがある期間の記憶がないようにも…………この世界の記憶は空なのよ。ただ……どこか別の、或いは違う世界の記憶があるかしら」
レナードの言葉を理解しようと目を細めるルバートとかざきり。
エリスが星汰の元へ歩み寄ると、上体を起き上がらせた星汰の背中に手を添えた。