第一章8 アルカディシア「赤髪の少女」
現か夢か――意識が覚束ないまま少年は酷く淀んだ視界の中で考える。眠りから現実に戻るいつもの感覚を思い出し、希望も絶望もない憂鬱な目覚めに少年の瞳に人影を映し出した。
「セル様」
消えそうなか細い声は少年の聞き覚えのない声だった。けれど懐かしさに魅入られるように女性の顔を覗きこもうとした少年が、遥か遠くに設けられた天井から差し込む日の光に目を細める。赤い瞳と少し褪せた髪。瞼が大きく開かれないその瞳は悲し気に少年の目に映った。
「よかった……ご無事で」
赤い髪が眉を寄せた少年の頬に触れた。口を開いた少年が言葉を発しようとするも、口を開けたまま唾を飲み込んだ。再び声を発しようと試みるも、擦れた声が途切れてしまう。
膝枕をしていた赤髪の少女が少年の背中に手を支えて、自身の身体にもたれかけるようにして少年の上体をゆっくりと起こした。それからクラスに注がれた水を少年の口元に近づけ、ほんの少しずづ少年の口の中へと流し込んでいく。
一息ついた少年が瞳に映る――広々とした大聖堂は礼拝のための長椅子が一つもなく、遠くの出入り口まで深紅のカーペットが伸びていた。石材で造られた大聖堂はステンドグラスから微弱な光を取り込んで暗がりを飽和させていた。奥に進むにつれ、大天蓋から取り込まれた太陽光が巨大な妖精像を白く照らし、その妖精に抱きしめられるように見下ろされ、鎮座した黒い椅子が中央で荘厳に構えていた――その光景に困惑したまま、恐る恐る左後ろで体を支える少女の顔を振り返る。
「絵、吏……ちゃん?」
少年の言葉に、少女は顔を顰めた。
「わたくしのことが、お分かりにならないのですか……?」
儚いその表情に、少年は違和感にも似た差異を感じずにはいられなかった。
――記憶のあの子はいつも笑っていたから。目の前に居る瓜二つのこの少女は、僕のことを誰かと勘違いしていて、セルと呼んだその人のことが大切なんだろう。
少年の手首で光るエメラルドグリーンの光の輪がゆっくりと回転した。
「わからない。……それに、僕は、セルじゃな、い」
そっと少年の後ろ髪に少女の手があてがわれると、胸元に静かに引き寄せられた少年が優しく包み込まれる。膝を着いた少女が慈しむように少年の頭を抱きしめて、
「例え……例え記憶を失ったとしても、あなたは……あなたはセル様に違いありません」
コルセットの巻かれた少女の華奢な身体の中で、少年は思い出していた。
――知らない衣服、匂い、絵吏ちゃんより華奢な身体。どれ一つ知らない彼女だったけど、いつの日だったか、こんな風に強く抱きしめられた気がする……遠い記憶のあの子は今と同じように悲しい顔をしていて、彼女の振り絞った声を聞いた僕は、胸の奥が強く締め付けられていたんだ。