第一章7 アナザーワールド「少女の権利」
等間隔だった街灯も減り、山道を照らすまばらな街灯は大きな間隔をおいて真下の道路を照らすのみ。二十三時を示すスマートフォンの明かりに眼が眩むほど周囲は暗がりに沈んでいた。
本来であれば自分の四肢でさえも時折暗闇で一体化するその道で、二人は記憶追跡の光を頼りに進んでいた。とはいえ、それが暗闇を照らしてくれているわけではなく、確かな足取りで進んでいるのは、先の道を記憶している絵吏の指示に従って、暗闇でも目が利くセルが道を先行していたからだった。
「この道を抜けた先、向こう岸に架かる橋があるの」
左に曲がった道の先、垂直に右に屈折した記憶追跡の光と同じ方向を指さした絵吏が言った。
右下の山の斜面から川の流れる音が聞こえてくる。木々の隙間から絵吏の言っていた通り橋梁と、その中央で川の水面に真っすぐに伸びた記憶追跡の光線が水面にさしかかる手前で何度も火花を散らすように押し返されていた。
セルがイアリングに触れようとしたところで、差し合わせたようにイアリングの中央が黄色く点滅した。信号のように規則性のある光に対して、セルは困惑することなくそれを見定める。
「記憶干渉能力を共有する」
セルの言葉に道の開けた橋の手前で絵吏が立ち止まった。息を切らした絵吏が物憂げに振り返ってセルと向き合った。
「記憶追跡の軌跡が青色から赤く色濃くなった場合、対象者は命の危機に瀕している」
セルがそう言うと右手で絵吏の左手を掴む――お互いの記憶接続の光の帯が反応し、エメラルドグリーンからヴァイオレットへと色合いが変換される。
「星汰は無事だ。対象者が絶命していた場合、光は透明になり消えゆく。そして、対象者が命の危機に陥っている場合、記憶追跡の光線は乱れると同時に、対象者の混乱も反映させる。だが、この光線にその乱れはない。対象者が意識を失っている場合、同様に乱れの無い光線が投影されるが、その場合は青色の光が混ざる」
突然絵吏の脳内に記憶が蘇った。セルとも違う男の声が突如として再生される――――――『まずいぜ、この反応は……追跡できる距離には居ねえ! もうすでにバベルの中に居る、つまりだ、外界との反応が遮られて正確な居場所は分からねえが、無事なのは確かだぜ』――――突如頭の中で響いた見知らぬ声とおぼろげな横顔に絵吏は顔を歪めるも、どこか聞き覚えのあるその声に、再び記憶を呼び起こそうと目を瞑った。
目を瞑った絵吏の頭の中で、金色の短髪の騎士が指輪から伸びた記憶追跡の光線を見て焦りを浮かべる映像がフラッシュバックした。その光線は、今セルと辿っている記憶追跡の光線と同様に細く真っすぐに伸び、黄色から深紅にも思える色味を変えながら伸びていた。
「今呼び起こされたその記憶と同じように、星汰は追跡が困難な距離に居る。もしくは、これは俺の仮説だが、星汰は恐らく、俺と同じように、ここではない別のもう一つの世界に居る」
いつしか呼吸が荒くなっていた絵吏が深呼吸をして落ち着こうとする。
「それを確かめるため、今から星汰の記憶を追憶する――記憶共有」
二人の手首で旋回していた光の筒が途切れて二人の身体を囲い一つの筒状になる。
セルは強く自身の右手を強く握り締める絵吏の左手をなおも握ったまま視線を合わせた。
「まだ星汰の記憶が新しくこの場所に残っている。万象に残りしその記憶の行く先を、絵吏、お前の中にある星汰の記憶を起点に具現し行方を投影する――記憶追憶」
記憶追跡の軌跡がセルのイアリングに収束するように消え、代わりに二人の頭上に円形のオーロラが現れる。その光度が増し、目を瞑った二人の瞼の裏に記憶が映し出された――――――河川敷を眼下に水面に移る月、暗がりに淀む川の前景、黒い髪が靡いた少年の丸まった背中、暗闇に右半分閉ざされた残りの左上、それが四十五度区切られた視界で、立ち上がった少年の後姿が何枚もの写真をコマ送りにしたように切り替わった。
――絵吏、落ち着け。星汰を強く思い浮かべろ。
脳内で広がるセルの声。絵吏の視界がぼんやりと全体に映像を映し出す。それはやがて一人の少年の全容を捉えるようになり、星汰が川の水面を見据えている最初の記憶を映し出した。
――この後だ、水中に光の線が現れる。
上流から五十メートル程の川幅の半分を占める黄色い光の塊が、上流から光の尾を引いたまま流れてくる。一見月の明かりと同化しそうなほど薄くぼやけた色だが、それは自然現象では容易に説明できない光だった。
――あれ、は……あり、えない。
クジラのような巨大な光が川を泳ぐかのような挙動を見せる。
立ち上がった星汰が目の前を通り過ぎた光を追う。それはちょうど星汰の家のある山の真下辺りで止まり、河川から遠目に見ていた星汰の視線の先で燦燦と光を放ち消えた。
立ち竦み光の消えた水面を眺めていた星汰が踵を返して上流へと駆け出していく。
水中で淡い光の残滓が、水流とは反対に来た道を戻っていた。
鼠色のカーディガンが風に靡いて、紺色のスニーカーが坂道を昇っていく。
やがて、山道に差し掛かる手前、橋梁を前に息を切らして立ち止まった星汰が、橋の真下で光を放つ水面に近づいていく。
――だめ、星汰っ! 行っちゃだめ!
記憶共有でセルの声が絵吏に届いたように、絵吏の声もまたセルの元へと届いていた。
結末を悟った絵吏の動悸が激しくなる。それは次第に心の声になり、絵吏の悲鳴がセルの元へと共有されようとしていた。
大きく息を吸って酸素を取り込んだ星汰が再び駆け足になり、橋の手前で立ち止まって見定めた。アーチ型の鋼橋は小刻みに振動していた。橋は随分と劣化が進んでいたが強度には問題ないようだった。
橋を渡る星汰がゆっくりと足を踏みしめる。川の中央で奔流となった水面が、水底の黄色い光に反応するように渦巻いていた。顔を覗かせた星汰目がけて、水飛沫が迸った。
水面は低く、水位も波も橋までは到底及ばない。水飛沫を自身まで押し上げた風圧に髪を撫でつけた星汰がなおも橋の中央へと進んでいく。
橋の上から渦巻く水面を見下ろした星汰の目に、水中で渦を受け皿に輝く黄色い巨大な光が見えた。
その現象に自然と笑みを浮かべる星汰。次第に小さく消えていく光を惜しむように、欄干に両手で掴んで半ば身を乗り出すようにして水面を凝視していた。川幅いっぱいに荒れ狂っていた渦が半分ほどの大きさになり、月明りほどになる光を見た星汰が落ち着きを取り戻した。
乗り上げていた身体を元に戻し、欄干に掌を乗せて深呼吸した星汰が踵を返そうとして、
突然ズレが発生したように足場が大きく揺れた。体制を崩した星汰と橋を吸い上げるように、狂瀾怒濤の波が星汰の身体を薙ぎ倒した。
――せいたっ、 せいたっ! ――いやっ、……せいた!
橋を飲み込むほど巨大な水柱が円形の波を巻き上げ、その激流の隙間に垣間見えたのは、蒼白の顔を浮かべて橋に向かって手を伸ばす。渦に穿たれた水底に地面はなく、どこまでも
続くような深淵を背にした星汰の姿。
激流が頂点に達し、目を塞ぎたくなるような光景に絵吏が悲鳴を上げ、弾けた水柱が消し飛んだ。渦を巻いていた水面は、何事もなかったように穏やかな流れに変わっていた。
――っ、せいた、……あぁ、い……やっ、いやぁああああああぁあああ―――――――――――――「――吏ッ、絵吏!」
セルに抱き寄せられた絵吏が目を見開いた。セルが自身の耳元で名を呼び、握り締められていた両肩から背中に手を回して抱き寄せる。痛いほどに締め付けられた絵吏が胸元に額をそっ押し寄せた。その額に一筋の波が零れる。
「星……汰」
「星汰は生きている。ゆっくり息を吸え、落ち着いて――そう、息を吸うんだ」
うまく息ができない絵吏の身体をゆっくりと離していくセル。焦燥の一つもなく、絵吏の両肩に手を置いたままのセルが、絵吏が呼吸を正常に落ち着くのを待つ間、一時も絵吏から視線を逸らさない。
「これって……」
瞳の涙を拭って言葉を紡ぐ絵吏に、セルが僅かに躊躇い、口を開く。
「記憶追跡の軌跡がある限り、星汰はまだ生きている。恐らくこの水底はもう一つの世界と繋がっている。俺はこれから星汰をこの世界に連れ戻しにいく――恐らく元を辿ればあちらの世界から俺がこちらに来たのが原因だろう。不確かなことばかりだが、今は星汰の無事を祈るしかない」
セルは力強い瞳で絵吏の両肩から手を離し、絵吏から背を向けて橋へと向かう。
セルが橋を渡る手前で、駆け足で後を追ってきた絵吏がセルの右腕を掴んだ。
「待って」
息を切らす絵吏の元に、セルの穿つような鋭い眼光が向けられる。
先ほどまでとは違ったセルの纏う冷たい空気に、絵吏の身体が硬直し、うまく言葉を紡げない絵吏がその碧眼に釘付けになる。
「さがれ、星汰の記憶と同じように、激流が辺りを覆う」
突然温度を失ったように、有無を言わせぬ抑揚のない声がそう告げると、セルが橋を渡った。
腕を振り払われることもなく力なくその場で立ち竦む絵吏が、震える指先の両の拳を握りしめ、意を決して再びセルの背中の着物を握りしめる。
「あたしもっ、……つれ、て……いって」
セルからの反応はなく、ただ二人の間に静寂が流れる。
「すまない、ここにお前を一人放っていくことは危険にさらすことになる。だが、ここから飛び込んだ時点で命の保証ができない。そして、もう一つの世界ではこちらの世界よりもお前を更に危険にさらすことになる」
「っ――! …………私の家で、あの石が反応した時っ、あれは、もう一つの世界で、きっと重要な力のはず!」
半分ほど振り返った碧の瞳が、絵吏の瞳に冷たく玲瓏に映った。
「それに、セルの身に着けている指輪も、イアリングも、服のしたにある首飾りも……あたしに触れた途端に光を帯びて反応を示した……あなたがそれを見て驚いていたことも……」
振り返ったセルが胸元からブローチを絵吏に差し出す。絵吏はそれを拒むように目を瞑ってセルの胴体に両手でしがみついた。
「これを身に着けて入ればお前の身に危険が及んだ時に助けてくれる」
差し出された碧の石が埋め込まれたブローチを絵吏が跳ね返す。
「助けたいっ! 星汰を助けたい! ……星汰の居ない世界は嫌っ、私が星汰を連れ戻す!
その権利がっ、私にはある!」
絵吏の言葉ににセルが瞠目する。同時にセルの脳裏に浮かんだ少女の顔と声が、記憶の奥底から呼び起こされた―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
『セル様に私の記憶干渉能力を使うこと。誰がなんと言おうと……それが私の権利です』――――――赤髪の少女の、無表情で淡々とした主張。絵吏とは正反対の面影、されど瓜二つの二人を切り離すことは到底できない。
セルの背中でゆっくりと様子を窺った絵吏の右目に、振り返って絵吏を見下ろす少年の横顔が映った。月明りに白髪と碧眼を輝かせたその顔に、絵吏はハッと息を呑む。
「これから行く世界は命の危機が常にある。こちらの常識は通用しない。生きて帰るにはお前たちの強い意志も必要になる」
同意を促す言葉に絵吏は答えない。代わりに大きく一歩踏み出した絵吏がセルを横切って橋へと震える足を進めていく。
「いい覚悟だ」
セルが浮かべた微笑を絵吏以外の誰も知る由もなく、引き抜かれた右手小指の指輪の、加工されているとは言い難い歪な宝石が、虹色の如く暗闇の中で光を揺らめかせる。
記憶追跡の光線が再び現れ、橋の真下を向いたセルのイアリングから水面に向かって真っすぐに伸びる。深紅の光線が火花を放ち消え、それに反応するようにして水面もまた水飛沫を上げた。
セルが片手に欄干を飛び越えて、反対側の僅かな隙間に直立する。手を差し述べられた絵吏が欄干に両手を着いて、反対側へと足を跨いでいく。両足を跨いで川を背にしたところで絵吏の右手が目前に差し出されたセルの右手を握ろうと手さぐりな絵吏の手をセルが掴んだ。
「きゃっ!」
右手を勢いよく引き寄せられた絵吏がセルの胸元に飛び込んだ。セルは微動だにしないまま、絵吏の腰に手を回して体を固定するように抱きしめた。
「必ずこの世界へ送り届ける」
頬を僅かに赤らめた絵吏が力強く頷いた。セルが左の握りこぶしを水面に突き出す。
「記憶覚醒――記憶門塔」
広がった掌から宝石が四方に赤い電流を放つと、記憶追跡の代わりにイアリングから放たれていた黒く蠢く闇を取り込むように渦を巻いた宝石が集束、そして砕け散った。水面が一瞬で押し込まれると、刹那にして円形に凹んだ川底の深淵から真っ赤なオーロラが上空に向けて突き上がった。その中で荒波に渦を巻いた水中から電流が迸っていく。
轟雷にも似た音が水中を切り裂いて現れた深淵に消え、奔流を巻き上げる風圧がセルと絵吏の身体を攫おうとする。それでも絵吏を強く抱き寄せたセルの身体は欄干に背を預けたまま動きはしない。
「記憶を共有したまま向こうの世界へと渡る」
既に展開されていた記憶共有の光の帯が二人を包み込んだ。見定める二人の視線の先で深淵がどこまでも続いているように見える。本来あるはずの川底はどこにもない。
「ただ、そこにある記憶のために」
セルの絵吏を握る手が一層強くなり、セルが橋を蹴って川底へ飛び込んだ。
二人に反応するように水柱が橋を覆う程上空へ舞い上がり、水底の暗闇が二人の視界を真っ黒に覆っていく。仰向けになったセルの胸元に抱きしめられた絵吏が、静かに瞳を閉じた。