第一章2 アナザーワールド「記憶共有」
台所の窓は暗く、夜の帳をぼやけて透かしていた。台所を閉口に廊下が遮り、反対側の居間に、布団の上に寝そべった少年とその傍で絵吏が様子を窺っていた。
絵吏の両手は少年の右手を握りしめ、心配そうに見つめている。
薄い掛け布団に覆われた少年の肩口からは、絵吏が拵えた少年の着物――甚平よりは浴衣に近い紺色の生地が覗いていた。
絵吏の視線が少年の左耳にあるイアリングを凝視する。それに触れようとした時、少年の両目がゆっくりと開かれた。
「星汰っ! よかった……あの、その、大丈夫?」
完全に目を開いた少年が視界の端に絵吏を捉えると上体を即座に起き上がらせる。だが、腹部と首筋に走る痛みからか、少年は胴体を手で支えその場に膝を着いた。
「だめ、そのまま横になってて。蹴り飛ばしたあたしが言うのもなんだけど、本当にごめんね星汰」
自身の右手を両手で包み込む絵吏を横目に、少年は無表情のまま周囲を確認する。
畳、古びた木棚、古い木造の天井に吊り下がった正方形の木組みの照明、年季の入った複雑な
木目の天井が照らしだされていた。台所の反対には縁側があり、緑豊かな庭と池がある。
「でも星汰だってわるいよ……」
非難こそすれどその声音は弱弱しく、絵吏は恥じらいながら少年の顔から視線を逸らした。
「おじいちゃんにお風呂に入れって言われても、入る時はあたしにちゃんと言ってたと思うし……ていうかいつも遠慮してあたしが無理やり入れないと入ったことなかったじゃん! ていうかいつの間に風呂に入ったの⁉ 電気も付けずに……ていうかその髪なにっ! どこで染めたの⁉ こんな田舎にそんな綺麗に染められるところなんてあった? ていうかいつ染めたの⁉ 夕方ご飯届けに行った時は黒だったじゃん! ……もしかして、これはあたしの夢?」
一人でパニックに陥る絵吏が、夢か現か確認するために右の頬をつねった。
少年は繋がれたままの絵吏の左手を振り払うと同時に、目にも止まらぬ動きで布団から飛びずさった。
驚いた絵吏がそっと振り払われた左手を右手で包み込む。少年から発せられる緊迫感が絵吏の表情を強張らせていく。
「何者だ」
敵意を向ける少年に対して、絵吏は落ち着くために両手を胸の前で握りしめて深呼吸をする。
「星汰、もしかして、頭をぶつけた時に記憶が」
「記憶は正常だ。意識を失う前に蹴られたことも覚えている」
絵吏は少年の言葉に眉を寄せるも、相手の真剣な表情から必死に言葉を探そうとする。そんな絵吏の様子を読み取った少年が一呼吸おいて再び言葉を紡ぐ。
「俺はセイタではない」
絵吏が咄嗟に後ずさろうするも、少年の鋭い眼光によって絵吏の体が硬直する。その碧い瞳に取られられた絵吏の瞳が少年から逃れることが出来ない。
「動けば無事では済まない。ここはどこだ」
少年の更に射抜くような視線に言葉発しようとした絵吏の口が震える。喉元でつっかえた言葉を吐き出すために絵吏が呼吸を整えてから再び口を開いた。
「ここはどこって、あたしの家だよ? ……星汰やっぱりさっき頭を打ったせいで、どうしよう、救急車、いやでも――もしかして、ふざけてないよね?」
絵吏は少年からの警告による不安を誤魔化すように、少年の顔色を窺いながら苦笑を浮かべ、恐る恐る腰を上げ立ち上がった。
先程警告をしたはずの少年は咎める視線を向けたまま、体制を低くしたまま絵吏の挙動を窺っていた。
「と、とにかく、本当に自分が誰かわからないなら、救急車呼ぶからおとなしくしてて、い、言っとくけど冗談なら今の内だよ?」
苦笑いを浮かべた絵吏の額に朝が滲み出ていた。それをあくまで諦観する少年との間に沈黙が流れる。それを打ち破るようにしてぬらりと現れた人影が、廊下の暗がりから顔を出した。
「おい、絵吏」
紺色の甚平を羽織った総白髪の老人が、緩やかな口調で言った。まだ十分に生い茂った髪は短く切り揃えられ、老後も鍛えられているであろう体躯は精悍なもので、深い顔のしわに比べて直立した姿勢は若々しさを感じさせる。
「おじいちゃん」
「っ! アリオス大公⁉」
瞠目して驚く少年の様子に、絵吏が目を細めて訝しんだ。
「お久しぶりでございます。アリオス大公」
少年は少し躊躇い、左耳のイアリングに触れた後で、その場にゆっくりと膝を着いた。それに対して老人は反応することなく、しばらく沈黙して視線を畳に向けたまま口を開いた。
「星汰……お前、その髪、少し染めすぎやせんか?」
「そこもだけど言動もおかしいでしょ! これで普通に星汰ってどういうこと!」
呆れる絵吏の背後で、少年が口角を僅かにに吊り上げる。
「これは――地毛ですよ。アリオス」
親し気を込めた口調で少年が言った。老人は相槌を打つことなく踵を返し始めた。
「まあ、ゆっくりしていけ。絵吏、わしは出かける。ほどほどにな」
「ちょっとどこに⁉ もう二十一時だよ! ていうか、ほどほどにってなにっ⁉」
ふらりと立ち去る老人の背後に向けて絵吏が言うも、老人は見向きもせずに去って行く。
「まったく」と仁王立ちする絵吏をよそに立ち上がった少年が子細に視線を動かして室内を観察していく。
「ちょっと、どこ行く気?」
振り返った少年の双眸が絵吏に向けられる。言葉を発しようとするも、緊張で口元を震わせる絵吏。
しびれを切らした絵吏がポケットからスマートフォンを取り出すが――絵吏の右手が一瞬で逆手に取られる。その場に膝を着いた絵吏の手からスマートフォンが畳の上へと転がり落ちた。
「――痛っ!」
「妙な真似はするな」
絵吏を組み敷いた少年が畳に転がったスマートフォンに視線を向けて目を眇めた。
「あんた、星汰じゃない、わね、星汰はこんなこと、しない」
焦りを浮かべて呼吸を加速させる絵吏。背後の少年を睨みつけるために上体を起こそうとした絵吏の顔が更に苦悶の表情を浮かべる。
「あれはなんだ」
「いっ!」
返答をしない絵吏が更に加わった痛みに眼を瞑って歯を食い縛る。その目から涙が滲み、首筋から汗が浮かび上がっていた。
絵吏のスマートフォンにメッセージの新規通知が浮かび上がる。暗がりの畳の上で点滅した液晶画面を横目に、少年が視線を絵吏の方へと移した。
「渓谷都市の叡智にあれと同じようなものがある。ラピス族族長の末裔にのみ所有が認められるそれは、古代兵器の認証を解除する役割が与えられているという。だが、ラピス人特有の褐色の肌色、証である目の周りに施される黒い入れ墨がお前には無い」
背後の月明りに照らされた庭から風が入り込んできた。雲間から広がる月明りも相まって、少年の靡いた白い髪が、この世のものとは思えない髪色を露わにした。
「俺の衣服はどこにある」
「最初から、なかった、わよ」
「そうか――それならお前が左手に握りしめているものを見せろ」
胸の下に潜り込ませている左手に力を込めて絵吏が押し黙った。それに対して少年が更に力を加え、絵吏が限界とばかりに声にもならない苦痛の悲鳴を上げた。
「その菱形の石は基本的に使用者を選ばない。もし反応すれば、場合によってはお前の身体に危害が加わる恐れがある」
「っ、返して、欲しかったら、腕を解きなさい」
「星石盤はどこだ」
「――そんなの、知らないわよ」
絵吏の身体の下から青白い光が漏れると、少年が絵吏の腕を解いた。
「今すぐその石を渡せ、そのままでは危険だ」
立ち上がった少年の足元を刈るように繰り出された絵吏の回し蹴りが空を切った。
左手を軸にして身体を回転させて体制を整えた絵吏が少年の方へ膝を着く。
すぐさま少年の元へと駆けだした絵吏が左拳を少年の顔めがけて突きを放つ。拳は空を切ったが、間髪入れずに放たれた蹴りが少年の身体を捉える。
「武術の心得があるようだな」
絵吏の重心の乗った蹴りは少年の左腕でガードされると同時に右手で足首を掴まれていた。
「あなた一体、誰なの?」
少年が口を開きかけた時だった。絵吏の左拳から光が点灯し、暗がりの居間を切り裂いていく。瞬時に反応した少年が絵吏の手を掴み、耐えきれない絵吏が拳の中から石を落とした。
菱形の石が拳から零れ落ちた瞬間――放たれた光が二人の間から円を描いて広がる。それに合わせて放たれた衝撃波が二人を吹き飛ばした。
庭の地面に勢いよく転がった少年は池の傍を通り過ぎてブロック塀に体を打ちつけた。
少年がゆっくりと立ち上がる。何事もなかったかのように庭横切り、縁側を乗り上げて居間へ再び身を乗り出した。
台所を背にして意識を失った絵吏がぐったりと横たわっていた。ひっくり返ったテーブルや椅子が四散した居間の中央に、粉々になった石の破片が落ちている。
片膝を着いて石の破片に触れた少年の指先に電流が迸った。少年の手を弾くような反応を見せた石の破片が粉々に崩れ落ちた。
少年は絵吏の傍へと歩み寄り、絵吏の乱れた髪を払いのけ額を露わにする。目を瞑った少年の右手がイアリングに触れると、月明りを反射したとは思えない光量と精巧さでイアリングに青白い光が灯る。そして、絵吏の額に自身の額を触れ合わせた少年が口を開いた。
「記憶共有」
激しく閃光を放ったイアリングから飛び出たヴァイオレットの光が、少年の頭から帯状に伸びて二人の身体を包み込んだ。少年と絵吏の頭で集束した二つの光の筒が旋回を続けていく。