それはなんでもない夜のこと
帰り支度をして、職場で吾郎が着替えていると、突然店の照明が真っ暗になった。
「オイ!」
いけないと思って、慌てて後輩が照明のスイッチを戻す。すみませんとつぶやいて、吾郎はため息をついた。
「吾郎さん、先にあがりますね」
「うん、おつかれさま」
店の戸締りを吾郎がすることになる。家具屋の吾郎は、他の仕事に就いたことがない。会社で何度か異動の辞令を受けながらも、この職種にとどまり続けた。やりたいことがないわけではなかった。そして、より待遇のいいところに移ることへの重要性をあまり認識していなかった。この新宿の店舗は比較的会社のなかでも大きめな店だが、気の合った同僚も先輩社員も続々と辞めて行った。ある者は、年収のため、ある者は、病気で病んでしまったため、そんな人達の変わり様を見ては、吾郎は取り残された悲しさを感じずにはいられなかった。吾郎に影響があるわけではないのに。
「ジャガイモを帰る時に買っておいて」
朝、妻の芙美子に言われたことを覚えていて、この時間にまだ空いているスーパーマーケットに寄り、ジャガイモとピーナッツチョコレートを買った。吾郎はスーパーに並べているワインのなかから一つのラベルを見ては、その絵にうっとりしていた。黒猫とステッキが並んでいる彼の好きなデザインだった。しかし、吾郎がそのワインを買うには彼の財布は更に小遣いを必要としていた。芙美子には、お使いくらいの小遣いしか渡されていない。仕方なく、諦めた。
家に帰ると、芙美子にそのスーパーのワインのことを話した。すると、彼女は
「それって、がとーなんとかっていうワインのことかしら。私もその絵いいなって思ったの」
「ああ、同じなんだね」
吾郎は、冷蔵庫からウイスキーを取り出して、買って来たピーナッツチョコレートの袋を開けた。
「とりとめのない一日だ。ただ、自然とそんな言葉がでてきたが、はたして、とりとめのないという言い方があっているのか、俺には説明できない」
「出た出た、ものぐさ癖。チョコレート一個もらうね」
そうやって芙美子は、先に一個口に放り込んだ。
「まあ、おれは四六時中ではないが、純文学と芸術と哲学のことを考えている。でも、生きていることの肝心なことはどっちなのかとわからなくなる。このチョコレートの方が大事なのか」
「あなたは白黒つけすぎなのよ。じゃあみんなの世界に、ベートーヴェンやピカソやカントがなくなってごらんなさい」
「なくても行けるだろ」
「嘘よ、ジャジャジャーンがない世界はなにか物足りないのよ。ゲルニカがなければ、戦争の悲惨さの象徴が無くなってしまうわ」
「それは受け入れられる場合だろ。俺や君が、たまに描く風景画などの知られないもの、ありふれたものなんていったいなんだというのか」
芙美子は、近所にあたらしい洋菓子屋さんがオープンしたと言って、冷蔵庫からケーキを取り出して、お皿に分けた。
「人は、創造するときに満たされる感じを覚えるのよ。受け入れられるかじゃないのよ。言い換えてみると、そうね・・代謝みたいなものね」
「ふむ、そうするとあれだね。ユーゴーが書く物語も、ダリの描く絵画も、ルソーの夢想も消化して排出する代謝だということだね」
「まあ、・・私はそう思うわ」
「そうか」
二人してケーキをフォークで刺して食べてみる。重ねたチョコレートケーキだった。
「ねえ」と芙美子が言った。
「なんで、チョコレートケーキ買って来たのを先に言ってくれなかったのっていうセリフを俺が言わないかだって」
「うん、当たり」
彼女はにやにやしていた。吾郎には、自分より賢い人が目の前にいることが楽しかった。こんな会話ができるから、芙美子と一緒に暮らしているのは面白い。
「同じものを沢山食べているのではないからね。それに俺はピーナッツチョコレートを食べたかった」
「お味はどう」
「苦味のビターな部分がいいね、美味しいよ、ありがとう」
よかったと芙美子はほほえんでいた。
「吾郎はさ、子供欲しいの?」
急な質問に、吾郎は芙美子の顔をちゃんと見ずにはいられなかった。彼の予想とは異なり、芙美子は笑ったままだった。
「君は、怒っているのかい、それとも悲しんでいるのかい」
「さあ」
芙美子は吾郎のウイスキーグラスを持ち、左右に振っていた。氷がカランと音を立てる。
「選択って一度しかないからずるいのよね。やり直しが効かないというか・・。子供も数年経てば、授かることすら難しくなるというのに」
「いや、俺にももしかしたら原因があるかもしれないよ」
「寛容な社会って・・どこにあるのかしら」
「君は、また今日君の両親に言われたのかい」
芙美子は首を全く振らなかった。返事だと言わんばかりに、吾郎の空いたケーキのお皿を洗い場に持って、洗い物をしていた。ジャーという水の音で、吾郎の声は芙美子には聞こえなくなる。そんな芙美子の様子を見て、吾郎は一体自分の望みは何だったのだろうと考える。テレビを点けても、番組に関心が出てこない。今、彼にはジャーという水の音とカチャンカチャンという食器の当たる音だけが遠くから訴えてくるかのようだった。