家族との訣別-08
雨宮将は、社長室の椅子に腰かけながら、携帯電話を耳に当て、パソコンで作業をしながら忙しなく仕事をしているように思えたが、しかし律が訪れたと知るとすぐに「またかけ直す」と電話を切り、作業を止め、律の下へと駆け寄ってきた。
「律っ」
律よりも少しだけ大きな背、その綺麗な背広で彼を抱きしめた将は、ほぅ、と大きく安堵の吐き、律の頭を撫でた。
「良かった……本当に生きて帰って来れたみたいだな」
「心配、してくれたみたいだな」
「ああ……私はゲームの事を良く知らないし、律なら大丈夫だと思ってはいたけれど、九十九さんからゲーム内でも死んだらコンティニュー出来ないと言われた時は、相当心臓が縮んだよ」
「……ごめん」
「謝る事は無い。お前がFDPに突入すると決め、私もそれをバックアップした」
座りなさい、と律を来賓用のソファに腰かけさせようとしたが、しかし律は首を振って拒否し、彼の手に触れながら、一筋の涙を流した。
「律……? どうした」
「親父、一つ聞かせてくれないか?」
「何だ」
「親父は、オレの事を、息子として愛してくれていたのか?」
「勿論だ」
律の手を握り、その成長途上の手がこんなにも小さいのかと、将は驚いたのだろう。
律は産まれてからもう十七年の月日が流れているが、しかし彼の手を握った回数、先ほどの様に抱きしめた回数など、恐らく両手で数え切れる程度だと、思い出しているのかもしれない。
「……正直に言おう。私は、子供との接し方が分からなかったんだ。それこそ母さん……美穂に、お前の教育を任せていたからな」
「オレに、金にならない事をさせようとしなかった」
「そうだな。それは今でも思う。例えばお前が一時期水泳をやりたいと言ってきた時、それは無駄な事だと思って辞めさせたし、今でもその考えは変わらない。強いて言えば、ゲーマーとして外に出ないから体力維持のためにやりたいと言うなら、止めなかったかもしれない、位だ。お前の体力維持を鑑みてジムへの入会を許可した事も、それが理由だ」
だがそれだってお前を想っての事だった、と将は言う。
「世間は色々言うがな、やはりこの世で信用できるのは金なんだ。
ああ、確かに命は金で買えない、それは認めよう。だが、愛する人や家族の命を守る為、病気になった時に払う金はどう工面する?
確かに金は一番重要なモノでは無いかもしれない。でも生きるには必要なモノなんだ。
だからお前が将来、金に困る事が一度だって無いように、一円だって無駄にしない、お前が将来に困る事が無いよう、手に職付ける事が出来るものだけを与えてやりたいと願っていたからこそ、そうしたんだと、分かって欲しい」
彼の言葉に嘘が無いと言う事は、律にも理解できた。
家族として触れ合った期間が短くとも……否、短いからこそ、彼の考えている、言っている事が嘘か真か等、すぐに理解できる。
「……じゃあ、母さんは?」
ピクリと、将が僅かに身体を震わせた。
「母さんは、愛してたのか?」
「……私にも分からない」
律の手を離し、彼は自分の座るべき椅子に腰かけ、頭を抱えた。
「母さんは……美穂は、理想の女性だったと思う。誰よりも美しくて、誰よりも他人を想い、自分の子供を慈しみ、金の亡者である私に最後まで操を立ててくれた。
……海藤雄一が、美穂を好きだったことなど知っている。外道と言われている私から奪おうとしていた事も分かってる。
だが結婚して、律が生まれ、律の将来を考える内に、私と美穂との間に、教育に対して齟齬があると気付いた時には、もう彼女を抱く事が出来なかった」
天井を見上げ、遠い目を浮かべる父の姿を、律はただ涙を流し、父の言葉を聞き続けている。
「美穂は、律のやりたい事をやらせてあげたいと言った。
私は、律の為になる事をやらせてあげたいと言った。
美穂の言い分も、確かに正しい。子供でいられる時間は短くて、青春なんかあっという間に通り過ぎて、遠い過去の事になっていく。
政治家の娘だった美穂はそうした自由も少なくて、そうした辛さを律に味わってほしくないという気持ちも、理解出来る。
だが、子供でいられる時間が短いと言う事は、大人になる為の準備期間が短い事と同義なんだ。
その時間に出来る限りの教育と、大人になっても、もし私や美穂がいなくても、一人で豊かに生きていけるだけの知識と経験を培わせた方が、よほど有意義だろうと考えた私だって、間違いじゃないと思ってる」
教育思想の違い故、すれ違ってしまった夫婦。
そうした家族など、この世界にはいくらだっている事だろう。
律だけが特別なのではない。
ただ、ありふれた家族のすれ違いが、そこにあっただけなのだ。
「だから……そうだな。母さんを愛していたかと聞かれれば……『愛してはいた』という答えが、正しいのかもしれない」
「母さんが死んだ時、アンタは悲しみもしなかった」
「悲しんだ所で、美穂が蘇るわけでもない」
「倒れた母さんの所に、アンタはオレを行かせようとしなかった」
「行った所でどうなるというんだ。あの時病院から受けた報告が確かなら、アメリカから日本へ戻る機内で彼女は死んでいた筈だ。死の間際、最後の別れが言えるわけでもない。あの時参加していた大会で優勝して賞金を獲得し、その金を葬儀に充てていた方が、よほど美穂に対しての手向けになっただろう」
二人には決して愛情が無かったわけではない。
教育思想もそうだが、何よりも根本的に考え方が異なっていた。
だからこそ、愛情も夫婦の情も、自然と冷めていってしまう。
しかし、それでも二者を繋いだ絆があった。
「律、お前はお母さん子だったから、私の言葉を理解できないかもしれない。理解など出来なくてもいい、事実私は金の亡者で、金になるなら、どんな障害でも跳ね除けると決めた男だ。
……だが、何故金に執着するか、その理由を答えろと言われたら、真っ先にお前の名を挙げるよ。
私は、間違いなく、お前を愛してる。
一人の父親として、たった一人しかいない、息子であるお前を」
真っすぐな瞳に、律は微笑みで返した。
「親父は、オレがFDPに突入した時、止めなかった。でも、それはオレを、信じていたからなんだな?」
「さっきも言っただろう。私はゲームの事を良く知らない。だが知らないからこそ、過去のお前がどれだけ民衆に愛され、どれだけの実力を有していたのかを、息子かどうかのフィルターを通す事なく見据えたからこそ、お前ならばクリアできるのだろうと信じた。そうして信じる事も、父親としての情だろう」
「それを九十九から聴いた時、オレはちょっと嬉しかった。こうして、親父から愛情の有無を聞けるだけで、嬉しい。
金にがめつい所もあるけど、それだってオレの事を想っての事だなんて言われて、嬉しくない子供はいないと思う」
「……信じてくれるか?」
「ああ、信じる」
――けど、と。
律は言いながら、将の前にある机に、持っていたカバンの中に入っているファイルを取り出して、置いた。
「オレは、こんな風にして手に入れた、汚れた金を『お前の為だ』って残されても、いらない」
「律……?」
「どうして……? 親父……どうして、真っ当に金を稼ごうとしなかった……? マシロフとアーフェイなんか頼って、量子化移動技術を他国に、中国やロシアなんかに、売ろうと……っ」
将は顔を青くし、今律が置いたファイルを開いて目を通す。
――マシロフとアーフェイの人間と、将との会食記録。
――その際にした会話の内容。
――SHOインテリジェンスとマシロフが人工衛星【トモシビ】への通信プロトコルから侵入し、データの改ざんを行った記録。
そうした細々とした内容が、そこには記されてあった。