【夏休み】5
「ねえ、楓くんの家を見学しても良い?」
荷物を母さんの部屋に置いたハク先輩が人懐っこく微笑む。それは夏の太陽のように眩しくて、可憐で、見つめられているだけで溶けてしまいそうだ。
「どッ、どうぞ……大したものはありませんけど」
「ありがとう!」
僕だけに向けられた眩い笑顔を正視出来なくて、僕は明後日の方向を見ながら返事をする。
「さゆちゃんはどうする?」
ハク先輩がさゆに声をかけると、彼女は庭の池で気持ちよさそうに泳いでいるハルをぼうっと眺めていた。
「……神様、楓くんの家に引っ越したの?」
ぽそっとさゆが呟く。
そうだ、さゆはプールでの事件のことも僕が雨福さんにハルを託されたことも知らないんだっけ。
「あ、ああ。雨福さんが親父の知り合いだったろ? あの後話が弾んじゃってさ……しばらく世話を頼まれたんだ」
ちょっと苦しいか? まあ、嘘は言ってない。
さゆの視線を辿ったハク先輩は、不思議そうに首を傾げて池を覗き込んだ。
「神様ってこの子? ふふっ、かわいい」
ハルはサービス精神が旺盛なのか、すいすい泳いでハク先輩とさゆにアピールするように水面に顔を出した。その無邪気な仕草に、ハク先輩とさゆはすっかり夢中になっている。ハク先輩の視線を独り占めするなんてずるいぞ……。
「楓、あんたの仕事はこっちよ」
不意に耳を引っ張られる。
そう、僕は椿女に命じられるまま肩もみをしていているのだ。何で……と言おうものならビンタが飛んでくるから従うしかない。
ハク先輩に家の中を案内することも出来ず、何が悲しくて客の肩もみなんかさせられているんだろう。
「何か言いたそうね? 下僕」
「……イイエ」
僕は大人しく椿女の肩を揉むのだった……。
「楓くん、おうちの外にある蔵、見てもいい?」
「は、はいっ……どうぞ!」
いつの間に移動したのか、ハク先輩の声が玄関から聞こえる。僕は廊下に顔を覗かせて返事をした。ハク先輩が嬉しそうに頷いて黒のロングスカートを翻していく。後ろ姿すら可憐だ……。
大人しく肩を揉んでいた僕に、ふと椿女が言った。
「蔵なんて、だいぶ長いこと掃除してないんじゃないの?」
「……まあな」
僕は肩を揉みながら返事をする。椿女はそれ以上何も言わなかった。
今の僕らに聞こえるのは、セミの鳴き声。それから、ぽちゃん、とハルが池ではねた音がして……その音に合わせてさゆが身を乗り出す衣擦れの音。
「あんたも行ってきたら?」
永遠にこの時間が続くのかと思われたその時、椿女が沈黙を破った。
僕としてはようやくこの肩もみから逃れられると喜びたいところだが……あまり気が進まない。よりにもよって行き先は蔵だ。
幼い頃、親父が陰陽師を辞めてから一度だけあの蔵に入ったことがある。
「何か、あったの?」
椿女が僅かに顔をしかめる。そう、あの蔵で恐ろしい事件が起きたのを今でも鮮明に覚えてるんだ。
それは……。
「お……大きな蜘蛛の巣が、顔に……」
「バッカじゃないの」
鞭よりも酷い言葉が僕を傷つける……。
僕は椿女に追い出されるようにして重い腰を上げると、仏壇の戸棚から鍵の束を取り出した。これがないと蔵に入れないしな……。そして、玄関で下駄を引っ掛けて外に出る。
肌を刺すような酷暑だ。僕は強い日差しに顔をしかめながら玄関から続く飛び石を踏んで蔵へと向かう。
蔵は家の裏側にあって、途中に掃除用具の入った物置がある。……どうせだから、蔵の掃除もしてしまおうか。物置の鍵を開けた僕は、中から竹箒を探し出して蔵の前へと向かった。
「す、すみません。暑い中待たせちゃって」
「ううん、私こそ蔵が見たいなんてわがまま言ってごめんね。それが鍵?」
ハク先輩が眩しい笑顔で尋ねる。僕は頷きを返して蔵の大扉にかかっている鉄製の南京錠を手にした。……が、すぐに日差しをたっぷり浴びて熱くなった南京錠から手を離してしまう。
「あつっ!」
「か、楓くん! 大丈夫?」
ハク先輩が慌てて僕の手を取った。細くて柔らかい指の感触に、一気に体温が上がる。
「……っだ、大丈夫です。ちょっと熱くて、びっくりしただけで」
「本当に? 火傷しちゃったんじゃ……」
ハク先輩はおろおろしながらポーチの中からハンドタオルを巻いた冷えたペットボトルを取り出して僕に握らせた。
「これ、握って少し冷やした方がいいわ。私が開けるから」
ハク先輩は優しく微笑むと、僕から鍵を受け取って南京錠の鍵穴に差し込む。カチリ、と音がして鍵が外れた。
錆び付いた鉄の大扉を、ハク先輩が慎重に引くと、思いのほかひんやりとした空気が頬を撫でる。
「わあ……涼しい」
ハク先輩の後に続いて僕も遠慮がちに蔵へと入る。掃除用具入れから持ってきた古い懐中電灯で蔵の中を照らすと、古い書物が当時のままで積み上げられていた。
親父の奴、どんなに貧乏になっても蔵の中身だけは売らなかったんだよな。自分の物はどんどん売ってたけど。
「これが楓くんの家の歴史なのね」
積み上げられた書物を見つめながらハク先輩がしみじみと呟く。
「ハク先輩、怖くないんですか? 結構暗いですし、それに……」
虫も出るから、と言いかけた僕の顔に柔らかくて不快なものが触れる。蜘蛛の糸だ。
大慌てで糸を顔から剥ぎ取った僕は、悲鳴を上げなかった自分を今日一番褒めたい。
「暗いのは結構平気よ。前に話したでしょ? 小さい頃、よくゴウくんの家の蔵の中で本を読んだって話」
ハク先輩は楽しそうに微笑むと、ちょうど目の前に積まれた一冊の本をパラパラと捲る。
「あ、これは割と最近の本ね。カタカナも混じってるし……うふふ、甘味が食べたい! って書いてあるわ。きっと陰陽師の日記ね」
ハク先輩はそう言って本の中に書かれている内容を眺めていた。
僕は部屋の隅にかかった蜘蛛の巣をさりげなく竹箒で払う。密室なのにどこから入り込んだんだか……。
「ねえ楓くん、かんなぎって何?」
不意にハク先輩が尋ねた。
「神様の声が聞ける特別な家系らしいですよ。治癒能力とか、超能力みたいな力があるそうです」
竹箒の先についた蜘蛛の糸が気持ち悪い。僕は指でべたつく蜘蛛の糸を摘みながら答えた。
「へえ……その神様の声って、トコヨノクニの神様のこと?」
「常夜の国?」
常夜の国とは冥鬼の故郷のことだ。神様ってのはつまり冥鬼よりも偉い人ってことになるけれど、常夜の国に神様が居るなんて聞いたことがない。どうしてハク先輩がそんなことを聞くのかよくわからなくて、僕は箒を持ったまま指で頭に角を生やして見せた。
「居ないですよ、常夜の国に居るのはみんな冥鬼みたいに人相の悪い妖怪なんで」
「ふふっ……じゃあどこかで読んだ御伽噺と混ざっちゃったかしら」
ハク先輩は僕のジェスチャーを見てかわいらしく笑うと、再び書物に視線を戻す。
書物を熱心に読みふけっているハク先輩の邪魔をするわけにもいかなくて、僕は竹箒で蜘蛛の巣を払っていた。
「しっかし、本当に多いな……蜘蛛の巣」
僕はため息をついて懐中電灯の光で蔵の奥を照らす。そこにはやっぱり蜘蛛の巣が大量に張っていた。あんまり行きたくはないけど、もし蜘蛛が出てハク先輩を怖がらせたら大変だ。……僕も大変だ。
「……う」
僕は暗がりの中に懐中電灯の光を当てながら少しずつ蔵の奥へと近づいていく。
光の照らす先に、なにか蠢くものが見えて僕は思わず身構えてしまった。
な、何だ? 今、何か……黒いものが動いたような気が。
「楓くん、どうかした?」
後方からのんびりとしたハク先輩の声がする。僕はすぐにハク先輩のほうに向き直った。
「なっ、何でも、ありません!」
蔵の入り口である扉に光を当てるようにして言うと、ハク先輩が小さく息を飲む声が聞こえた。
「か、楓くん!? そこ……」
「え……」
震えた声のハク先輩に尋ねられた僕は、後ろで何かが這いずる音が聞こえて竦み上がる。
生臭い息がゆっくりと近づいてくる。
なんで、なんで。ここには僕とハク先輩しかいないはずなのにッ……!
「は……」
僕は懐中電灯を手に持ったまま、おずおずと振り返る。
そこに居たのは、尋常でないほどに大きな蜘蛛だった。
毛の生えた黒い足をゆっくりと這わせながら近づいてくるその蜘蛛の大きさは、だいたい横一メートル……足を広げたらもっと大きいかもしれない。
「きっ……きゃあああああっ!!」
ハク先輩の悲鳴と共に蔵の扉が閉まる音が聞こえた。




