【検査入院】3
『申し訳ありません……父さん』
どこからか、力のない男の声が聞こえる。
僕は優しそうな女の人に手を握られて大人しく座っていた。
大人の話は難しくて、よく分からない。分からないから、僕はずっと黙っていたんだ。
よその家は落ち着かない。ただでさえ、みんな表情が暗いし空気も重苦しいのに。
そんな僕を退屈していると思ったのか、黒猫がゆっくりと歩み寄ってくる。
『楓、近くに公園があるから……我と散歩をしようか』
『うん』
僕はそう答えて、黒猫の魔鬼と共に外に出る支度をした。
魔鬼が誰かと何か話していたけど、靴を履くのに夢中で聞こえない。
靴を履き終えて玄関を開けると、小走りに魔鬼が駆け寄ってくる。
『靴は履けたか?』
『うん』
公園の場所なら知っている。
だから僕は、先に歩き始めた。
『楓──おぬしの父は、陰陽師を辞めると思う』
外に出た僕の後についてきた魔鬼が、僕を見上げるように言った。
陰陽師──。ああそうだ。僕のお父さんは陰陽師をしている……んだっけ。
お父さんは僕が物心ついた頃からいつも家に居るから、どんな仕事をしているのかよく知らないんだ。でもそのおかげで授業参観にも来てくれるようになったし、僕は嬉しいんだけど。
『我の役目も無くなった』
『……どこかに行っちゃうの?』
『行かぬよ』
魔鬼は何だか寂しそうに笑う。
僕は、魔鬼のその笑顔の意味が分からなくて彼を抱き上げた。
魔鬼はお父さんに仕える式神というヤツで、僕が生まれるずっと前からお父さんと一緒にいたんだって。
そうだ、お父さんはどこだっけ? 思い出そうとすると、僕の頭は霞がかかったようにぼんやりとした。
公園のベンチに腰掛けながら、僕が目を擦ると魔鬼がヒゲを揺らして笑った。
『──夜中まで柊の端末で遊んでいるからだろう』
『だってお父さんがリセマラ手伝えって言うんだもん』
僕は魔鬼を膝の上に乗せて、黒い毛並みをゆっくりと撫でる。
僕は公園のベンチから見える大きな屋根を見つめて言った。
僕達はあの家からここまで歩いてきたのだ。
『ところで魔鬼、お母さんはどこ?』
そう問いかけた時、目の前が真っ暗になる。
「う……」
いつの間にか病室に看護師は居ない。
広々とした病室に僕一人だけなんて、ずいぶんな待遇だ。一泊あたりの入院費はいくらなんだろう。
──検査入院、か。
病院に泊まるなんて初めてだな。
体の節々はさっきからずっと痛んでるし、枕は固すぎる。
真っ白な天井は見てるだけで落ち着かない上に。薬品の匂いも気になる。まるで実験動物にでもなった気分だ。
本当に今日、僕はこの部屋で寝なきゃいけないのか?
「はあ」
僕はため息をついて、天井を見ないように寝返りを打った。
……強打した背中が痛い。
僕を線路に突き飛ばしたのは、一体誰だったんだろう。
あの時尾崎先生が助けてくれなかったら、僕は間違いなく死んでいた。
あと少しで電車に接触するところだったのに、尾崎先生は危険も顧みずに僕を助けてくれたんだよな。
少し前まで、あんな言動で僕を困らせてた人が……。
「ちゃんと、お礼……言っておけばよかった」
尾崎先生はもちろん、ゴウ先輩にもだ。
ゴウ先輩は僕のことを心底心配してくれていた。
出会った当初は怖い先輩かと思っていたけど、結構人懐っこいところがあって……家のことも任せろって言ってくれた。ゴウ先輩には頭が上がらないな……。
「冥鬼、どうしてるかな……」
僕の帰りが遅くて玄関でうろうろしているであろう冥鬼の姿が浮かぶ。
早く家に入ればいいのに、暗くなってもいつまでも外に出ているんだろう。今日も留守番を頑張ったと僕に褒めてもらうために。
「……」
僕は目を伏せて、枕に顔を押し付けた。
少しだけ眠ろうか、そんなことを考えていた時、廊下からパタパタと足音が聞こえる。
急いでいるのか、走るような音だった。
「……っき、鬼道ぉ……!」
息を切らして病室の扉を開けたその声は、顔を上げなくても聞き覚えがある。
「ゴウ、先輩……? うっ……」
そう言って体を起こそうとすると、ズキンと腕が痛んだ。
すぐに駆け寄ってきたゴウ先輩に遮られる。
「ば、馬鹿! 動くなよ! いや……でも動けるか?」
言ってることがめちゃくちゃだ。
上体を起こそうとするが、すぐに痛みでベッドに沈んでしまう。
ゴウ先輩は慌てて僕の体を支えた。
「い、一体どうしたんですか? ゴウ先輩、尾崎先生と一緒に帰ったんじゃ……」
「一緒だったぜ。で、でもお前が心配で……戻ってきたにゃ」
ゴウ先輩はしどろもどろに呟くと、おもむろに掛け布団を剥がした。
「なあ、痛いところって背中か? それとも、足か? どーしても泊まらなきゃダメか?」
「な、何ですかいきなり……」
狼狽える僕のことなどお構い無しに、ゴウ先輩が捲し立ててくる。
だけどすぐに『ごめん』と言って一度姿勢を正すと、大きく深呼吸をしてから言った。
「さっき、お前の氣を搾り取ってどこかに送るって話し声が聞こえて……」
「な……」
聞き間違いじゃないんですか?
そう思わず口にしてしまうほどには信じられない。
しかしゴウ先輩はかぶりを振って僕の腕にしがみつく。
「よくわかんねえけどッ……あの女は危険だ。お、オレの直感は当たるんだッ! だから──」
「困りますよ、患者さんを連れ出したら」
ゴウ先輩の言葉にかぶるようにして、看護 師が病室へ入ってくる。その中には小森先生もいた。
「君……九兵衛と一緒に帰ったんじゃないの?」
「あ、あんな変態と二人っきりで帰れるかよ!」
ゴウ先輩は小さな体で威嚇するように吠えると、僕の前に立った。
小森先生の顔は見えないし状況もサッパリだけど、室内の空気はピリピリしてる。
「退いてもらえる? 部外者には関係ないんだから」
「か、関係あるっ!」
そう言って不安そうに振り返ったゴウ先輩と目が合った。
どうしていいか分からないって感じで、縋るように僕を見ている。
その時だった。
「変態呼ばわりとかひっでえな、ゴーくん」
びく、とゴウ先輩の肩が震える。僕も聞き覚えのあるその笑い声に耳を疑った。
くすくすと笑いながら扉の外から現れたのは、尾崎先生だ。目を丸くしている看護師を見るなり、自然な動作でその肩に腕を回す。
「……そういうわけで、楓クンはお家に帰るらしいからさ。オレの看病頼めない? 出来たら朝まで」
おどけた口調で看護師の首筋に腕を絡める。当然、看護師は怒ったような声で言った。
「ふ、ふざけないでください。いくら小森先生の弟だからって、我々の仕事の邪魔は──」
「邪魔してんのはテメーらだろ」
尾崎先生は冷たい声で呟くと、おもむろに胸ポケットから煙草を取り出して口に咥えた。
病院内は禁煙だ、と看護師が声を荒らげるよりも早く、尾崎先生の咥えた煙草から煙が立ち上る。
「オレの生徒にさ、手ェ出さないでくれる?」
そう言って、尾崎先生の口から煙が吐き出される。
何故だろう。その煙には僅かに妖気を感じた。
「九兵衛、あんたまで、何でアタシの邪魔を……」
次々と看護師が倒れ込む中、小森先生は壁に寄りかかった形で耐えていた。
膝を震わせながら足元に落ちた注射器を拾おうとするけれど、彼女の体は力が抜けたように倒れ込んでしまう。
「おっと」
それをすかさず尾崎先生が彼を支えた。
小森先生や看護師たちは気を失っているのか目を瞑ったまま動かない。
「尾崎……先生、それは……術、ですか?」
「アハッ、本場の陰陽師に言わせたら術でも何でもないと思うけど」
尾崎先生はケラケラと笑うと、小森先生を抱き直してから僕達に視線を向けた。
「ほら、お迎えだ」
「なーんだ。オレさまの出番は無しかよ」
尾崎先生の声を合図にして、不意に窓から聞き覚えのある声が聞こえた。
そこに居たのは、窓のふちに足をかけた赤髪の美少女。
「冥鬼……!」
「遅くなっちまったな。お手柄だぜ、ネコちゃん」
冥鬼は片目をふせてニヤリと笑みを浮かべながらゴウ先輩を見やる。
「だ、誰がネコちゃ……うにゃ……」
ゴウ先輩が毒づくけれど、すぐに頭を押さえてしまった。
窓からぴょんと飛び降りた冥鬼が、片手でゴウ先輩の首根っこを掴む。
「だが、カトちゃんに連絡してオレさまを叩き起すとは考えたじゃねーか」
「お前、寝てたのか……」
呆れるというか、冥鬼らしいと言うか……。
「当たり前だ。たらふく食ったら眠くなるもんだろうが。それに省エネモードのオレさまはよく眠るんだよ」
冥鬼はそう言って僕の姿を見るとチッと舌を鳴らした。
「楓にこんなふざけた真似をした野郎の正体が分からねーのはムカつくが、ネコちゃんの頼み通り、楓をここから連れ出しに来たぜ」
「ま、待ってくれ。尾崎先生、あなたは……」
一体あなたは何者なんですか。
僕の問いかけに、尾崎先生は唇に指を当てて意味深に笑った。
「オレはただの教師、尾崎九兵衛だよ。陰陽師の鬼道楓クン」
尾崎先生は気を失った小森先生を連れてゆっくりと部屋を出ていく。
部屋に残された僕達は、静かな病室の中でぽかんとしていた。
「先輩、頭痛はもう大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫だ。……オマエを助けに来たのに心配されるなんて、かっこ悪いよな……オレ」
ゴウ先輩はすまなそうにネコミミをペタンと伏せている。
「楓、怪我の具合はどうなってる?」
冥鬼が尋ねる。
僕が何かを言う前に、彼女の手が僕の体を押し倒した。
ふかふかとしたベッドの上に倒された僕は、馬乗りになってきた冥鬼が胸の前で腕を組んで見下ろしてくるのを眺めながら答える。
「……全身が痛い。線路に落とされた時、結構派手に打ったから」
「ちぇっ、オレさまの主サマに勝手なことしてくれたじゃねーかよ」
冥鬼は、つまらなそうに舌打ちをして僕の頬を撫でた。
「あーあ……かわいい顔にも傷がついてる」
そう言って頬の擦り傷を冥鬼の指がなぞる。
熱を孕んでいる傷は、少し触られただけでヒリヒリと痛んだ。
「かわいいって……女の子じゃないんだぞ」
「似たようなもんだろ、オマエ体力無いし」
冥鬼はさりげなく酷いことを言う……。
「そうだ楓、あの術で怪我も治せるんじゃねえか?」
「は……笑ってくれ。術を使う体力も気力もないんだよ」
「何だよ、だらしねーなあ」
冥鬼はそう言いながら僕の制服の中から御札ケースを取り出すと、青い筆で書かれた御札を指で引き抜く。
「……んっと、こうだっけ?」
冥鬼がそう言って御札を突き出す。
当然、何も起こらない。
「あれ? 札がピカピカしねーぞ」
「当たり前だろ……陰陽師じゃないと使えないんだよ、それは」
「やっぱ楓ってすげーんだ……」
「違うよ」
僕は、少しだけふてくされたように言って冥鬼の手から札を取った。
「なあ、どうすんだ? このまま鬼道を家に連れ帰っても布団で休ませるくらいしかできないじゃんか」
「うっ……オレさま、壊すのは好きだけど治すのって苦手なんだよなァ……」
心配そうなゴウ先輩の問いかけに、冥鬼が頭を抱えている。
僕はベッドに体を預けたまま力なく笑った。
「常夜の国の王様ならなんでもできそうなイメージあるけどな」
「当たり前だろ。でも、治癒は親父の得意分野で……オレさまは昔から親父の使う力とは相性悪いっつーか……」
冥鬼は気難しそうに腕を組むと、僕の頬に手を当てて見せる。
「むう……」
眉間に皺を寄せて冥鬼が僕の頬の傷を治そうと試みる。僅かに、ほんの僅かではあるが頬に優しい力が流れ込んでいくのを感じた。
だけどすぐに冥鬼の集中力は切れてしまう。
「っにゃー! もう無理! 限界! 神経使う!」
冥鬼は疲れきったようにベッドの上に大の字になる。そして、ごろんと横になってから上体を起こした。
「でも、絶対オレさまが治してやる。どんだけ時間が掛かっても徹夜でやるし!」
「自分のタイムリミットを忘れたのか?」
「あ」
冥鬼の体はあっさりと幼い姿へ戻ってしまった。
冥鬼は、ぺたぺたと這うように僕の元へ近づいてくる。
「メイ、おにーちゃんのかんびょうがんばる!」
「ありがとう……いてて」
僕は軋む腕を上げて冥鬼の頭を撫でる。
その一部始終を見ていたゴウ先輩が、ふと口を開いた。
「なあ、その札……オレに使わせてくれよ」
そう言ったゴウ先輩は、じっと僕の手の中の御札を見つめていた。




