【幸せのケサランパサラン】2
僕が憂鬱な理由はもうひとつある。それは部活動のことだ。
霊力が尽きてほぼ寝たきりだった時、こまめに訪ねてくれたハク先輩の顔を僕はあれから見れないでいる。
ハク先輩は、学校帰りに僕の家に寄って溜まっている洗濯物を片付けたり、買い出しをしてくれたりと家事全般を手伝ってくれたそうだ。女神様か?
そんなハク先輩に、いくら寝ぼけてたとは言え、僕は何て失礼なことをしてしまったんだ……!
よりにもよって、あんなことやそんなことを聞くなんて、絶対に変な後輩だと思われた。いくら優しいハク先輩だってドン引きしたに違いないんだ。
大して仲の良くない地味な後輩風情に「恋人いる? てか好きなタイプ教えてよ(笑)」なんて言われたら誰だって引く! 僕が女でも引く!
なのに……僕はハク先輩みたいな麗しい女の子になんて大罪を……。
ああ、胃が痛い。ため息が出る。泣きそうだ。部活に行きづらい……。
「つ、着いてしまった……」
僕はオカルト研究部の部室の前で立ち止まった。
一週間以上訪れていなかった部室は、シンと静まり返っている。
「し、失礼します……」
勇気をだして深呼吸。小瓶の中で揺れている綿毛をお守り代わりにギュッと握りしめ、久しぶりに部室の扉を引く。
部室の中は爽やかな風が吹いていて、ゆらゆらとカーテンが揺れていた。
窓際に手をついてこちらに背を向けているのは……清潔そうな白いシャツに青いズボンを履いた若い男。
蜂蜜色の髪が風に合わせて静かに靡いている。
「……風が気持ちいいね」
僕に背を向けたままの人物が呟く。細身だけどその体格からして男性だろう。そして、声も歳若い男のものだった。
「そう思わない? 鬼道楓クン」
背を向けていた男性がゆっくりと振り返る。
つり目がちの瞳は琥珀色をしていて、すっと通った鼻筋に色白の肌に眩しい笑顔。
一目で、息を呑むようなイケメンだと分かる。
身長は僕よりも高くてスラッとしているけれど、さすがに日熊先生ほど大きくはない。
細身でチャラチャラしたその見た目は一瞬ホストか何かかと思ったけど。
「え、っと……卒業生、の方……ですか?」
「アハッ! そう見える?」
男はわざとらしく吹き出して首を傾げる。
先輩、ではないよな。卒業生でもない。
とすると……。
「……先生?」
「当たり〜」
男はそう言って笑うと手に持った部員名簿を見せて弧を描くように口の端を上げた。
「全校集会で紹介されたんスけど、その様子だと覚えてねーみたいスね」
「ええと……?」
こ、心当たりがない──。
今日の僕はずっと抜け殻みたいになっていたからな。どんな顔して電車に乗って、午前中の授業をどうやって過ごしたのかすら覚えてないレベルだ。
言い淀む僕を見て、男は肩を竦めて笑った。
「なら改めて自己紹介といきますかぁ」
そう言って、美形の男は窓枠に寄りかかりながら切れ長の目を細めて僕を見つめた。
「尾崎九兵衛──今日からオカルト研究部の顧問になった二十三歳独身。彼女募集中」
尾崎先生はそう言って笑うと部員名簿を見ながら軽いノリで口を開いた。
「これで挨拶してないのは鬼原ハクさんと小鳥遊香取さんだけっスねー」
「ちょ、ちょっと待ってください。オカルト研究部の顧問は日熊先生です!」
ナチュラルに受け入れそうになってしまったが、僕は慌てて言葉を挟む。
「ああ、日熊センセイは別の学校に赴任するんじゃなかったっスか? オレ会ってないんで知らねえっスけど〜」
そんな馬鹿な。
だって日熊先生は……いいや、師匠は僕の家で今日も元気に腹を出して寝てるんだぞ。別の学校になんて行くわけがないしそんな話は聞いてない。
髪をかきあげた尾崎先生は、これでもかと言うほどイケメンスマイルを浮かべていた。
ハッキリ言って教師に似つかわしくない。
チャラい。チャラすぎる。
「ところでさ、楓クン。あ、楓クンって呼ぶね? さっきから気になってたんだけど──」
蜂蜜色の髪を揺らしながら尾崎先生が僕に近づいてくる。
思わず後ずさろうとすると、先生は手を伸ばして僕の手首を掴んだ。
「何ビビってんの? 何もしないって」
尾崎先生はニヤリと笑って握ったままの僕の手のひらをこじ開けるように指をねじ込む。
「おー、ケサランパサランじゃん」
制止する暇もなく、尾崎先生が僕の手の中から小瓶を取り出した。
「か、返してください」
「楓クンさ、こいつの別名を知ってる?」
小瓶を取り返そうとする僕には答えず、尾崎先生は小瓶を覗き込みながら言った。
「狐の贈り物──って言うんスよね」
小瓶を傾けて、中のケサランパサランに陽の光を浴びせながら尾崎先生が目を細める。
「狐の……?」
「ウン、そう」
尾崎先生は小瓶の中でぎゅうぎゅうに詰まっている毛玉を見て片目を伏せた。
「狐の毛玉から生まれたケサランパサランには妖力が宿ってんの。その妖力で持ち主に幸せを運んでくれるんスけど……一説には他人に見せたら幸せが逃げるとか言われてるんで、こんなふうに持ち歩くのは感心しないよ」
尾崎先生はニヤリと笑って、その小瓶を僕に差し出した。
僕の顔を覗き込んだ尾崎先生が唇の端を上げて笑う。
「オレ、こう見えてオカルトとか民間伝承、チョー好きなんスよ。学校の七不思議とか全部調べるタイプだったし」
掴みどころのないヘラヘラとした笑みを浮かべながら尾崎先生が続けた。
「あとは──妖怪も好き」
その言葉で僕の表情が強ばるのが自分でも分かった。
「……よ、妖怪?」
「そ。楓クンは妖怪好き? 好きじゃなかったらこんな部活入らないっしょ」
尾崎先生はからかうように目を細める。
その眼差しは、まるで僕の心を見透かすように見えて……僕は思わず目を逸らしてしまった。
「いえ……信じて、ないんで」
「へえ?」
尾崎先生は楽しそうに喉の奥で笑うと、不意に距離を詰めてくる。
一体どこまで近づいてくる気だ。
思わず扉から離れて時計回りに壁伝いを逃げる僕に、尾崎先生がくすくすと笑いながら僕の腕を掴む。
「目ぇ逸らすなよ。本当は好きなくせに」
耳元でそう囁いた尾崎先生の声は、ゾッとするほど冷たい。
尾崎先生は耳元に顔を寄せると、僕の髪を指に絡ませながら楽しげに喉の奥で笑った。
「好き、なんかじゃ……」
「アハッ、見かけによらず嘘は下手なんだ? 分かりやすくてかわいいね」
クルクルと僕の髪を指に巻き付けて弄りながら、反応を楽しんでいる様子で尾崎先生が笑う。
そのうち、僕を壁際に押し付けるように距離を詰め始めた。
に、逃げ場がない──。
「オレさあ……この街に来たの初めてだから楓クンに色々教えて欲しいんだ」
尾崎先生は猫撫で声で言いながら、僕の頬にかかる髪をゆっくりと耳にかけるようにかきあげる。
その動作が気持ち悪くて、僕は思わず目を瞑ってしまった。
心臓が嫌な音を立てている。
「美味しいランチが食える店とか、かわいい女の子が居る店。あとは心霊スポットとか? もちろん楓クン自身のことも聞きたいな」
尾崎先生が、まるで口説くような言い回しをして低く笑う。やたらと距離が近いし、耳に息がかかってぞわぞわする。
「僕なんかより、詳しい人は……ほ、他にも……ひっ!」
喋る度に声が引きつる。顔を逸らそうとすると、尾崎先生が僕の腰を抱き寄せてきたことで、僕達の距離はさらに近くなる。
恐ろしいくらい整っているけど、どこか冷めたような尾崎先生の顔が僕を見下ろしていた。
「ダメなの? ……キミのこと、もっと知りたいんだけど」
「へっ?」
思わず間抜けな声を上げてしまう。
尾崎先生は僕の毛先を指で弄びながら笑った。
「すげえいい匂い。顔もかわいいし、女の子みたいだよね」
手に取った髪を顔に近づけた尾崎先生が猫撫で声で囁いてくる。それはまるで恋人に囁くかのようだ。
だが、僕は男で尾崎先生も男だ。男にこんなことをされて嬉しいわけがない。
「エロい子って髪が早く伸びるって言うじゃん。楓クンって真面目そうだけど──意外と遊んでんだ?」
尾崎先生の吐息が耳をくすぐって気持ち悪い。僕はたまらず尾崎先生の胸を押し返した。
「ふ、ふざけないでください! 遊んでなんかいません!」
「アハッ、冗談だよ。ムキになんないで?」
悪びれもなく尾崎先生は面白くもなさそうに笑ってから髪を離すと、僕の顎を掴んで無理やり自分に視線を合わせる。
「じゃあさ、今──オレと遊ぼうか」
尾崎先生が、数段低いトーンで問いかける。
僕は冷や汗を垂らして壁に背中をつけたまま、その場から逃げ出すことができない。
なんでこの人は、いちいち距離が近いんだよ……!
「……っぐ」
息がかかるほど近くに迫った尾崎先生から顔を逸らすけど、すぐに顎を強く掴まれる。さすがの僕でも我慢の限界だ。
たまらず睨みつけるが、尾崎先生にはちっとも効いてない。それどころかこの人は楽しそうに目を細めていた。
「いいね、その顔……オレ、抵抗されるとすっげえ燃えるタイプ」
尾崎先生は低く笑うと強く僕の顎を掴んだまま、ゆっくり顔を近づけてくる。
彼の目を見ていると、腹の底から込み上げる嫌悪感と恐怖がぐちゃぐちゃになって吐きそうだ。
僕は尾崎先生の胸を強く押すように腕を突っぱねた。
すると、先生の片足が僕の両足の間に割り込んでくる。
「なっ、何を……」
「ほらぁ、本気で抵抗しないと……マジで襲われちゃうよ。童貞のまま先に処女卒業なんて男として死にたくなんねぇ? オレは死にたくなるけどね」
まるで小馬鹿にするように笑って尾崎先生が僕の肩を掴んで強く壁に体を押し付ける。
後頭部を壁に打ってしまった衝撃で思わず小さな悲鳴を上げた僕を尾崎先生が笑う。
この男は……僕に嫌がらせをして楽しんでいるのか?
「怖がりすぎでしょ。……チョー興奮すんだけど。ねえ、もっと聞かせて」
尾崎先生の手が、僕のズボンのベルトに手をかけてくる。カチャリ、とベルトのバックルを外す音が聞こえた。
咄嗟に尾崎先生の手を押さえつけるけれど、それより前に尾崎先生の指が僕のズボンのジッパーに引っかかって、ゆっくりと下ろしていく。その音に、僕の頭の中は真っ白になった。
「ひっ……尾崎、先生……何を」
「その怯えた顔、たまんねえよ。めちゃくちゃにぶっ壊してやりたくなるね」
嫌悪と恐怖で身動きの取れなくなった僕の耳元で尾崎先生が囁いてくる。その鈍く光る琥珀色の瞳は感情が読み取れない。
情けない話だが、まるで肉食獣を前に動けなくなってしまった小動物のように、僕は動けずにいた。
本能的な恐怖が、僕の体全体を支配している。
「だ、誰かっ……助け……」
がくがく、と膝が震える。怖がる僕を楽しむように、尾崎先生がニィと笑った。
まさにその時。
「き、鬼道に触るにゃーっ!」
不意に部室の扉を開けてきたのは鬼原ゴウ先輩だった。噛んだのかそうでないのか相変わらず分からない。
ネコミミを揺らして駆け寄ってきた先輩の小さい手が僕の袖を引っ張って、外に出るように強く促してくる。
「は、早く……帰るにゃ!」
「アハッ、今日は部活無いらしいから帰っていーっスよ♡」
まるでさっきまでの形相が嘘だったかのようにあっさりと手を離した尾崎先生が笑顔で手を振る。僕はゴウ先輩に手を引かれるようにして尾崎先生から離れた。
「ああ、そうそう──楓クン」
尾崎先生の声が背中から聞こえて、僕は心臓を鷲掴みにされたような感覚に支配される。
「この街のこと、全然知らないのは本当なんで……これから仲良くしてくれると嬉しいっスわ。もちろん、ゴーくんもね」
尾崎先生が目を細めてニヤリと笑う。
僕は何も答えないゴウ先輩に引っ張られながら尾崎先生に視線を向けるが、その不気味にも思える微笑みを正視できなくて、すぐに部室から出ていった。
妖怪や幽霊よりも生きている人間の方が怖い、なんてよく言ったものだけど、尾崎先生には妖怪とは全く違う、別次元の恐怖を感じた。
だってあの人の周りには、今までに感じたことのないような数の悪意と憎悪、ありとあらゆる穢れが渦巻いていたから。
傍に居るだけで気を失いそうな、あれだけの穢れに包まれて普通に生活しているなんて……尾崎九兵衛、あの人は一体何者なんだ?




