【絶対安静】1
僕は、暗い暗い廊下の奥に立っている。大きな襖の奥では大人のひそひそ話が聞こえるけど、子供の僕には関係ないしわからない。
珍しく難しそうな顔をしたお父さんに連れられて、とっても大きな家にやってきたことまでは覚えてるけど……お父さんはどこに行ったんだっけ?
『だ、誰か、いませんか……』
不安たっぷりの僕の声が廊下に消えた。
小学四年生にして迷子なんて恥ずかしいぞ、僕……。
そんなことを考えながら、廊下に立ち尽くしていた時だ。
『楓──兄さん』
どこからか、少し驚いたような声がして辺りを見回すと──廊下の奥の襖から、黒くて長い髪をした和服の女の子が僕を見つめていることに気づいた。一体いつから? わからない。わからないけど……。
赤い目をした、かわいい女の子だ。きっと大きくなったら美人になるんだろうな。
『……どう、したの?』
僕以外にも人が居たんだ。それが嬉しくて、はやる気持ちを抑えて問いかけるけれど、女の子はじっと僕を見つめたまま黙っている。
何も答えない女の子がミステリアスで、美しくて、僕の足は自然と女の子の元へ向かっていた。
女の子は襖から顔を出すようにして身を乗り出していたけれど、僕が近づいてきたことに気づくと遠慮がちに視線を逸らしてしまう。
『ううん、久しぶりだなって思って』
かわいらしい外見とは裏腹に、その声は少しハスキーだ。まるで男の子が声変わりをしかけているような……そんな声。
僕と同い年くらいの女の子は、泣きそうな顔をして答えるけれど、人見知りな僕は黙って彼女を見つめることしかできないでいる。
いつまでそうしていただろう。やがて、女の子が白くて細い腕を僕へと伸ばしかけて、すぐに躊躇うように下ろしてしまった。
思わず女の子と同じ目線になるように屈むと、女の子の小さな手がゆっくりと、そして確かめるように僕の頬を撫でる。
『おじいさまが言ってた。兄さんはもう、ボクに会いにこないんだって。兄さんは陰陽師になれないから、会いに来ることはないって……』
まるで大切なものに触れるように、女の子が僕の頬を撫でながら言う。僕には彼女が何を言っているのかわからない……。
陰陽師って、何のこと?
お父さんが陰陽師をしていたってことは、黒猫の魔鬼に聞かされて知ってるけど……でもお父さんはもう陰陽師はしないって言ってた。
今日はそれを伝えるために、お父さんに連れられて来たんだ。
『……楓、兄さん』
女の子がか細い声で尋ねる。
それにしても、さっきから兄さん兄さんと呼ばれるけど、この子は一体誰なんだろう?
『これが最後になるなら、ボクは兄さんが欲しい』
赤い瞳に涙を浮かべてそう呟いた女の子は、ゆっくりと膝立ちになって僕の唇に口付けた。
彼女の名前も、僕と彼女の関係も分からない。けれど唇から伝わる熱は心地よくて、嫌じゃなかった。
僕の体は、恐らく彼女の部屋であろう襖の奥へと導かれ、暗い暗い畳の上に寝かされる。
女の子から逃れるように顔を背けると、体の上でハスキーな息遣いが聞こえた。
『ぷは……ぼ、僕は、君の兄さんじゃないよ。一人っ子だもん』
何だかたまらなくイケナイことをしている気分になってしまって、しどろもどろになりながら答えると、僕の上にのしかかった女の子は赤い瞳で僕を見下ろしたまましゃくりあげた。
『どうしてそんな意地悪言うの? 兄さんはボクの兄さん──楓兄さんでしょ? 今日の兄さん、変だ……ボクのこと、嫌いになった?』
女の子が赤い瞳から涙を零しながら訴えるけど、僕には彼女が何を言っているのかわからない。
全然何も……わからないよ。
「う……」
ゆっくりと景色がボヤけていき、周囲が墨を流したような漆黒で塗りつぶされていく。
意識の片隅で、自分の呻き声が聞こえた気がして重いまぶたを開けると、見知った天井のシミが見えた。
同時に、ひょこっと茶色と白の毛色が混じった小さいタヌキが僕の顔を覗き込む。
「か、楓!」
「おにーちゃあんっ!」
師匠の声を聞きつけてすかさず飛びついてきたのは幼い姿の冥鬼だった。
冥鬼は真っ赤な顔でわんわん泣きながら僕の首筋にしがみついてくる。
「……ここは、うっ!」
体を起こそうとして腕に力を込めるが、おかしいな。僕の体はうんともすんとも言わない。
もう一度、今度は膝を立てて体を起こそうとしてみるけれど……まるで鉛のように足が重くなっていて、言うことをきいてくれなかった。
「起き上がるな、おぬしはしばらく絶対安静だ」
遅れて顔を覗かせてきた黒猫の魔鬼が、ヒゲを揺らしながら僕を見下ろす。
「どういう……こと……」
呂律の回らない声で尋ねると、師匠が心配そうな顔で答えた。
「オマエ、霊気を根こそぎ抜かれちまったんだよ……オイラみたいに。これがその証拠だ」
そう言って師匠が両手に手鏡を持って僕に見せる。
鏡に映っているのは間違いなく僕、鬼道楓のはずだが……。
「これ……僕の、髪?」
鏡に映った僕の髪は頭頂部から毛先まで全て真っ白になっている。まるで雪のように。
「黒い髪には霊力が宿る。その髪が白くなっているということは、おぬしの力がほとんど奪われたことを意味する」
覚醒したばかりの頭では魔鬼の話が上手く処理できない。
確か僕は……体育館裏にあるあかずのトイレで……。
「そうだ、ハク先輩……は? 無事なのか?」
「だいじょーぶだよ……」
冥鬼が鼻をすすりながら舌足らずな声で答える。
彼女の話を纏めるとこうだ。
僕はあかずのトイレで得体の知れない女に襲われた。ハク先輩を人質に取られ、大人しくしていれば先輩に手は出さないと言われたんだ。だから抵抗せずに大人しくしていた。
だけど……僕を助けようとした冥鬼が飛びかかってきた寸前に意識を手放してしまったそうだ。
その後、僕の容態を確認しているうちにどさくさに紛れて女は逃走し、騒ぎを聞いて駆けつけてくれたオカルト研究部の先輩たちが僕の家に連絡してくれた……らしい。
僕の体は今も頭に霞がかかったようにぼんやりとしていて、上手く物事を考えることができない。これも力を奪われたせい……なのか?
そんなことを考えながら額に手を当てていると、ゆっくりと和服の男が部屋に入ってきた。
──親父だ。
「目が覚めたかよ。学校には連絡しといたからな……お前はしばらく外出禁止だ」
「が、外出禁止って──何だよ。僕はどこも……」
悪くなんかない、と言いかけて這うようにして布団から出ようとするが、僕の体には力が入らず、体を起こすことが出来ない。
まるで長時間正座をした後みたいに、全身が痺れて力が出ないんだ。
慌てて、冥鬼と師匠が僕の体を支え起こしてくれた。
「言っただろう、冗談や大袈裟でもなく、おぬしは絶対安静なのだ。少なくとも今月中は学校を休むように……いいな」
魔鬼がそう言って僕を見下ろす。
僕は、一日にしてまるで病人みたいになってしまった自分を見下ろして呆然とするばかりだった。
「メイ、おにーちゃんのことまもれなくて、ひっく……ごめんなさいぃ……」
冥鬼が目に涙を溜めて呟く。
泣き腫らした冥鬼の姿は痛ましい。きっと、ずっと泣いてたんだろう。
僕はかぶりを振って、冥鬼を安心させるように笑った。
「お前のせいじゃ、ないよ……ハク先輩や冥鬼に何も無くて……よかった」
僕は冥鬼の髪を撫でるために手を上げるが、それだけで息が上がるし今の体ではそんな仕草すら重労働だ。
「……少し寝ておれ。家事はしばらく我とタヌキで何とかしよう」
「そ、そーだぞ、オイラも洗濯とか手伝うからな! 任せろぃ!」
魔鬼にどつかれるようにして、師匠が慌てて胸を張る。
今はそんな二人の姿が何よりも頼もしく見えた。




