【怪異を探せ2】4
「先輩!」
僕が声をあげた時だった。
ハク先輩の腕を掴んだ白い手が驚いたように彼女を解放する。
その場にへたりこみそうになるハク先輩を慌てて支えようとして手を伸ばすが、すかさずハク先輩の体を支えたのは冥鬼だった。
「おねーちゃん! だいじょうぶ?」
心配そうにハク先輩を見上げる冥鬼に、ハク先輩は震えながらも冥鬼に心配をかけまいとするように微笑む。
「だい、じょうぶ……ありがとう、メイちゃん。それから……楓くんも」
青い顔をしたハク先輩が、小さく震えた手で冥鬼の髪を撫でながら中途半端に手を差し出した僕にも礼を言う。
僕は差し出したままの手をそろそろと引っ込めながら木の扉を睨みつけた。
扉は中途半端に開き始めていて、中から息を潜めている誰かの気配を感じる。
一応、弱いけど僕は仮にも陰陽師だ。コイツが生者か死者かの違いくらいならわかる。
(コイツは、人間だ……)
幽霊なんかより生きている人間の方が怖いとはよく言うけど、全くもってその通りだと思う。もしも相手が変質者だった場合、僕は正直太刀打ちできる自信がない……。
白い手が、ぐぐっと扉を掴むように姿を現した。やがて、ゆっくりとトイレの中から出てきたのは……。
「何よ……こんなにぞろぞろ来るなんて、聞いてないわよ……」
まるで海藻を被ったかのような黒く長い前髪を不気味に垂らした女がおぼつかない足取りでトイレから出てくる。
その虚ろな眼差しは、とても正気とは思えない……。
僕は思わず後ずさった。
「き、君は誰だ? 東妖の生徒か……?」
よくよく見ると彼女はまだ僕たちと同い年くらいだ。その長い漆黒の髪の下では真っ白のワンピースが広がっていて、一目見た人は彼女を幽霊だと思うかもしれない。
正直、青白い肌と虚ろな目のせいで僕にはそうとしか思えなかった。
だが、ハク先輩も見ている手前、情けない姿は見せられない。僕は震える手を強く握りしめて女に問いかける。
風もないのに女の髪がゆらゆらと揺れているのが不気味だ……。
「……鬼道、楓……?」
「え……?」
突然名前を呼ばれた僕は思わず反応をしてしまう。
同時に、突然女が僕へと両手を伸ばした。
到底女の力とは思えない恐ろしい力が、僕の首をギリギリと絞めあげてくる。
「あぐっ……」
「あははッ……見つ、けた、見つけたッ──!」
黒髪の間で血走った目が僕を見つめていたた。
彼女が何故僕の名を知っているのかは分からない。わからないけど……。
「やめっ……ごほっ……」
首を圧迫されて苦しい。思わず女の手に爪を立てようとした時、女が乱暴に僕の首を離して胸を強く突き飛ばした。
激しくむせる僕を冥鬼とハク先輩が慌てて支える。
「おにーちゃん!」
冥鬼は既に泣きそうだ。逆にさっきまで青い顔をしていたハク先輩は眉を寄せて女を睨みつけた。
「……あなた、いきなり何をするの? こんなのひどい……乱暴すぎるわ」
ハク先輩が、僕を庇うように進み出る。しかし女は動じることなくハク先輩を一瞥すると、やがてニタリと笑った。
「きゃあっ!」
絹を裂くようなハク先輩の悲鳴が響く。
次の瞬間、女が突然ハク先輩の体を地面に突き飛ばして、今度は僕や冥鬼が助けるよりも前に、ハク先輩の体は地面に倒れ込んでしまった。
先輩の胸には黒い御札が貼られている。もしやあの女が貼ったのか?
僕が御札の存在を認識したのとほぼ同時に、ハク先輩の足元に不自然な黒いシミが広がっていく。
「うふ……ふふふ……ついでよ。あんたも搾り取ってあげる……!」
先輩の足元に広がった黒いシミから何本もの触手が出現し、それぞれが意思を持つようにハク先輩の足首を掴んだ。
「まずい……冥鬼ッ!」
僕はすぐに冥鬼を呼び寄せると、彼女の頭に手を乗せる。
「鬼道楓の名において命じる! 常夜の鬼神冥鬼よ、今ひとたび此処に顕現せよ──!」
数珠が赤く輝き、幼い冥鬼の体から炎が立ちのぼった。
その炎を片手で払い除けるようにして現れたのは本来の冥鬼だ。
冥鬼は緋色の瞳を女へ向けると、殺気を隠そうともせずに睨みつける。
「……調子に乗るなよ、クソアマ」
「……調子に乗ってるのはどっちかしらぁ……」
女は肩を揺らして笑うと、おもむろに僕の胸を指した。
僕の胸には……ハク先輩と同じ、黒い御札を僕が貼られている。
見慣れない御札だが、とてつもない禍々しさを感じずにはいられない。
「何、だ……この御札……」
すぐに御札を引き剥がそうとするけど、御札はまるで服の一部か何かのように引っ付いて離れない。
そんな僕を見ながら女がひたひたと近づいてくる。
「あんた、親の──いいえ、先祖の七光なんだって?」
女は頭を重そうに振りながら呟いた。海藻のような黒髪がゆらゆらと揺れる。
思わず後ずさってしまう僕を見て、女が口の端をニタリと歪めた。
「千年前、数多の妖怪を従わせた伝説の陰陽師……鬼道澄真」
女がそう呟くと、僕の胸に貼られた黒い御札から無数の触手のようなものが伸びてくる。
その触手は僕の両手両足、腰と首に巻きついて締め上げてきた。
「──ひっ!」
「その子孫があんた! 何の力もないくせに、肩書きだけは立派じゃない!」
ギリギリと体を締め付ける触手を見つめたまま女が叫ぶ。あまり大声を出さないタイプなのか、その声は突然大声を出したせいで掠れていた。
突然未知の術によって体を拘束された僕を助けるべく冥鬼が手のひらを重ね合わせて炎を纏わせる。
けれど、そんな冥鬼を嘲笑うように女が言った。
「貴様──!」
「動いたら……そこの女を先に殺すから……」
触手に両手と両足を拘束されたハク先輩が苦しそうに目を瞑る。
それを見た冥鬼は、強く奥歯を噛み締めて女を睨みつけた。
ふざけるなよ……。ハク先輩に、これ以上怖い思いをさせてたまるか。
僕は触手に腕を取られながらも御札ケースを取り出そうとした。
けれど……。
「ぐ、あうぅっ!」
まるで僕の行動を読んでいたかのように、体の拘束が強まる。
ギチギチと音を立てて触手が僕の体を締め付けてきて、体の中から熱が奪われていくような感覚があった。
ふと自分の体を見下ろすと、触手が皮膚の中に入り込んでいる。なんだよこれ……まるでヒルみたいだ。
僕は皮膚の中に潜り込んでくる触手の感触と未知の恐怖に耐えながら歯を食いしばる。
「ひ、ぐ……っうう……」
「あはは、いい声……。怖い? 苦しい?」
女はギラギラとした目を向けながら問いかけてくる。
首筋から、腕から、そして足に至るまで僕の皮膚には触手が突き刺さり、そこからゆっくりと何かが吸い上げられている感覚があった。
それが血液なのか、それとも別のものなのか僕にはわからない。わからないけど、指先からどんどん力が抜けていく……。
「あたしの目的は……鬼道楓の霊気だけ」
「ああ?」
女がボソボソとした声で呟くと、不快感を隠そうともせずに冥鬼が睨みつけた。
「鬼道楓が大人しく霊気をくれればそこの女には何もしない……。もちろん霊気を抜いても元に戻るから安心して。日熊先生だって生きてたでしょ?」
女がニタリと笑った。
まさか、師匠もコイツが……!?
師匠は焼却炉で襲われたと言っていた。僕はずっと鬼火が関わっているんだと思っていたけど……。
「鬼火は……お前の仲間なのか……?」
「ふ、ふ……知ってどうするの?」
あんたに何が出来るわけ? と女が笑う。
鬼火の仲間であることに否定も肯定もしないけれど、アイツと何らかの関係があることは間違いない。
「ど、して……この学校に……んぶっ!」
再度問いかけようとした僕の口に触手が捩じ込まれ、言葉を発することが許されなくなる。
身動きが出来ない僕を助けるべく、殺気に満ちた冥鬼が両手から炎を噴き出して刀身の赤い剣を取り出した。だが……。
「冥鬼、やめっ……んん!」
僕は触手に舌を取られながらも絞り出すような声で叫ぶ。ちっ、と冥鬼の舌打ちが聞こえた。
冥鬼が苛立つ気持ちもわかる。彼女の力なら僕を直ちに救うことができるはずだ。
けれど万が一、ハク先輩にこれ以上の危険が及んだ時のことを考えたら……。
「楓……まさかと思うが、オレさまの力を見くびってんのか?」
怒りを押し殺したような低い声で冥鬼が問いかけるものだから、僕は何度もかぶりを振った。
触手が僕の頬を舐めるように撫でてきて気持ちが悪い。
さっきよりも触手の温度が上がっているように感じるのは、僕の体温が下がっているせいだろうか。
「ひ、っう……」
やがて触手の先端が、太い血管の通っている首筋に突き刺された。
不思議なことに、血は出ていない。それなのに僕の体はどんどん冷たくなっていく。
この女、本当は僕を殺すつもりなんじゃ……。
「楓、やっぱ今すぐその女をぶち殺して今すぐお前をッ──!」
僕の思考を感じ取ったのか、冥鬼が声を荒らげる。
「僕、は……だいじょ……ぶ、だから……。もし、僕に何かあったら……ハク先輩を……」
僕は触手を口から吐き出しながら息も絶え絶えに言った。
僕より先輩のほうが怖いはずだ……辛いはずだ!
本来なら僕がここに来なきゃいけなくて、先輩はついてきてくれただけ……。
あれ、そもそも、どうして僕はここに来ることになったんだっけ……?
確か、高千穂部長が──。
「ふふふ……健気だね……それにしてもあんたの苦しんでる顔、ヤバいよ。素質あるんじゃない?」
女が黒髪の奥でギラギラとした目が僕を見つめて、舌なめずりをした。
やけに長い舌が、まるで蛇みたいだと思う。
女が僕の顎を乱暴に掴んで顔を近づけてきたせいで、僕の思考は中断される。
もはや意識は朦朧としてきて、抵抗する力すらない……。
「メイちゃんっ、私のことはいいからっ……楓くんを助けて! このままじゃ楓くんが死んじゃう!」
「……ッ……どいつもこいつもッ! 言われなくても分かってんだよ!」
ハク先輩の叫びと共に、冥鬼が地を蹴る音が聞こえる。
その時、女の手元が狂ったのか皮膚に入り込んだ触手が大きく躍動した。
ズキン、と触手の入り込んだ部分に激痛が走ったと感じた瞬間、すごく気持ちよくなって、僕の意識がゆっくりと蕩けていくのを感じる。
ああ、これが死ぬってことなのか。
黒に染まっていく意識の中で、艶やかな長い黒髪の女性が僕を見てにっこりと笑う。
その顔は、幾度となく見てきた仏壇の部屋にある写真に飾られた女性、僕の母さんによく似ていた。




