【思ひ染む 逆さ芙蓉の 鬼子母神】8★
簡単あらすじ
鬼道柚蔵の禍蟲を前に、苦戦する猿神と江都。そんな彼らを救ったのは十万億土から帰還した楓と、復活した冥鬼だった。
激闘の末に柚蔵は斬り伏せられ、樹海には静寂が戻る。
そんな中、猿神の胸中には複雑な感情が残っていて……?
「楓ェ〜、オマエの出番奪ってごめんな〜? ちょっと張り切りすぎちまった」
ビュン、と風を切って太刀を肩に預けた冥鬼は、満足そうにニヤニヤと笑っている。
視線の先には、炎狗にまとわりつかれている楓がいた。
「いいよ。スッキリしたか?」
「おうッ!」
楓は、その元気のいい返事にうっすらと笑みを浮かべる。
去年の戦い以降、最強の鬼神は戦線を離脱していた。詳しい事情は、猿神にはよく分からないし、聞いたところで覚えていない。
ただ、この半年間、冥鬼の穴埋めとして楓の手伝いをしていたのだから、感謝くらいして欲しいと内心思う。
「次はオマエに活躍させてやるよ、楓! 修行の成果、オレさまに見て欲しいだろー?」
そんな猿神の気持ちとは裏腹に、冥鬼は人懐っこい犬のように楓に絡んでいた。
すっかり元気いっぱいになった冥鬼を見て安心したのか、楓がわずかに口元をゆるめる。
「いや、この力は……そう長く持たない」
炎狗を撫でていた手のひらに、炎が宿る。その炎の色は、中心が微かに青かった。
「一夜漬けの勉強に、大して効果がないように──僕が十万億土で得た力も、長期的に保存しておけないんだと思う」
そう言った楓の横顔は、猿神には見えなかった。すぐに冥鬼が反論しようとするが、その唇に楓の指先が軽く触れる。
長い黒髪が、生ぬるい風に煽られて揺れた。
「──僕は……」
「あのさぁ、ボクのこと忘れてるでしょ」
楓が何かを言いかけた時、すっかり蚊帳の外にされていた猿神が毒づく。
「ご、ごめん」
「おう……」
完全に自分を忘れていた様子のふたりに呆れて、猿神はわざとらしいため息をついた。
何とか平静を装っているが、すっかり毒が回ってしまい体が動かない。あと少し遅かったら、蟲に喰い殺されていたかもしれないと思うとゾッとした。
「思い出話も反省会もどうでもいいから。早く何とかしてくんない? お姉ちゃんの後でいいからさ」
地面に体を横たえたまま、ふてくされたように瞼を伏せる。すぐ近くに楓が近づいてきた気配を感じて、ようやく張り詰めていた表情が和らいだ。
(……変なの)
陰陽師の傍にいるのが心地いいと感じるなんて、以前の自分なら思いもしなかった。
彼は、よりにもよってあの男の子供なのに。
「──終わったぞ」
目を開けると、どこか申し訳なさそうな──不器用な笑顔を向ける彼と目が合った。
元々回復術を使えたとはいえ、以前とは見違えるほど、発動までの無駄な時間が短縮されている。
「……う」
体を起こそうとして、猿神は気づいた。
体内の毒が、まだ消えていない。握りこんだ指の節々が微かに痺れ、先程まで動かなかった膝から下にもピリピリとした痛みが残る。
不器用な笑みの理由はそういうことか、と猿神は納得する。
「ごめん、完全には……」
「いいヨ。動けるし」
猿神は体を起こして軽く肩を回した。不快感は残るが、動けないほどではない。
江都も気を失ってはいるが、表面上の傷は回復したようだ。呼吸も安定しており、それだけで生きているのだと安心する。
「こーゆー複雑な解毒はよォ、まとめて親父に治してもらうのが一番だぜ?」
楓の治癒を見ていた冥鬼が、少し間延びした声で提案する。楓は同調するように頷いたが──何か思うところがあるのか、沈黙してしまった。
猿神を癒していた霊符が、炎の葉に変わって消えていく。
「近くに豪鬼さんと──紅葉さんがいるんだ。お前は頼りたくないだろうけど……」
その遠慮がちな声色に、余計な気遣いを感じた。体を横たえたまま話を聞いていた猿神は、小さく鼻を鳴らして体を起こす。
先程までは気づかなかったが、微かに覚えのある匂いを感じる。藤之助の折り紙が発動したのも、彼がそう遠くない距離にいるからだろう。最初の出会いが最悪だったため、あまり気乗りしないが。
「……分かったヨ。行く」
今は江都の命が掛かっている。個人の感情など後回しだ。
ふてくされたように吐き捨てると、楓が眉を下げて笑った。
「じゃあ冥鬼──紅葉さんのところまで、道案内を頼めるか?」
「おう! その後は自由行動でいいんだろ?」
両腕を頭上に伸ばして、ストレッチをしながら冥鬼が答える。まるで、旅行にやってきた子供のようなテンションだ。
「ああ、僕は──ハク先輩を助けに行く」
既に、さらわれたハクのことも聞いているのだろう。楓の表情は硬い。
少し見ない間に、彼はずいぶん落ち着いていた。それが何だか、置いていかれたような気持ちになるのは何故だろう。
きっと楓は、自分がいなくても上手くやれる。
(ボクは、もう必要ない。当然じゃん)
かつて──古御門泰親と尾崎九兵衛との戦いの時、機転を利かせた猿真似で彼らを救ったのは、ただの気まぐれだった。なんなら、これで貸し借りなしになって離れられるとすら思ったほどだ。
大嫌いな陰陽師の子がどうなろうと、知ったことじゃない。今までもこれからも、陰陽師は大嫌いだ。
そのはずだったのに。
回復した冥鬼を取り戻した楓が、猿神と手を組む必要はない。
元々この協力関係は、気まぐれで手を貸してやっただけ。
冥鬼の体調が崩れたから──楓が実力不足だから、仕方なく期間限定で結んでやった仮初の契約。
「……さっさと行けば?」
猿神はため息を飲み込んで言った。
普段、学校で付き合いのある女子たちはもちろん、取り巻きの妖猿にすら、こんなに女々しい感情を抱いたことはない。
そんな自分に呆れながら、猿神は背中を向けた。
「早く案内してよ、冥鬼サン──」
「日吉」
不意に楓が呼んだのは、大好きな少女に付けてもらった名前。それを彼に呼ばれただけで、まるで金縛りに遭ったように動けなくなった。
「もう、勝手にいなくなったりするなよ」
背を向けたまま答えない猿神に、楓が続ける。
「会いたくなったら、いつでも飯を食べに来ればいい。寮が落ち着かないならうちで寝泊まりしたっていいし、ハク先輩と遊びたいなら……それは事前に僕に連絡しろよ、腹立つから」
これまで、楓は何度も歩み寄ろうとしてきた。突っぱねてきたのは、いつだって自分だ。いつだって、彼の前では素直になれなかった。
けれど、今なら──ほんの少しだけ、素直になれるような気がする。
「意味わかんない」
楓に背を向けたまま、猿神は小さな声色で呟いた。
今、彼に伝えたいのは、強がりでも悪態でもない。
本当に言いたい言葉は、他にある。
助けに来てくれて嬉しかった。
名前で呼んでくれて嬉しかった。
叱ってくれて、嬉しかった。
「……」
猿神は知っている。
人間は、それらの感情を、たった5文字の音で言葉にすることができると。
「ありがとう……」
夏休みに入る前からずっと胸に渦巻いていたものが、たった一言で清々しい気持ちに変わる。
それは、彼が少女に教えてもらった言葉の中で、最も優しい言葉。
こんなことなら、もっと早く伝えておけばよかった。そんなことを考えながら、振り返った猿神の目に映ったものは──。
「は?」
既に、炎狗の背に乗って樹海の奥に向かっている楓の姿だった。数秒後、思わず『馬鹿』と低い声が漏れる。
「楓ってそういうとこあるからなァ〜。親父殿に似たのかも」
「何も言ってないし」
あっけらかんとした様子で楓の後ろ姿を見送る冥鬼に、猿神は横目で悪態をつく。
「それに、楓サンと柊じゃ全ッ然似てないじゃん。楓サンのほうが……カッコいいでしょ」
小さく呟いた言葉も、地獄耳の彼女には聞こえているのだろう。案の定、冥鬼は目を丸くして、すぐにだらしなく笑った。
「だ〜よ〜な〜? あ、でも楓はカッコ良さの中にカワイさもあって……」
「……時間ないんだから、早く案内してくれる?」
江都の体を抱き上げて、猿神は小さく鼻を鳴らした。
楓の成長についてはともかく──常夜の王、冥鬼の強さはやはり規格外だ。あの時、楓と黒丸に敗北していなければ、猿神は今頃、狐輪教側にいたかもしれない。柚蔵のように首をはねられていたのは自分だったかもしれないと思うとゾッとする。
「お前さ、感覚鈍ったんじゃない?」
「お?」
不意に猿神が話しかけてきたことが意外だったのか、冥鬼は間抜けな返事をした。
「次はアイツをちゃんと仕留めてヨ」
吐き捨てるように呟いた猿神の後ろを、冥鬼が振り返る。
「あー……」
その間延びした声は、次第に納得がいったような声色に変わった。
静まり返った樹海に、もう禍蟲の気配はない。彼らを狙う殺気も、悪意も感じない。
ただ、動物の本能が知らせている。
そこに、死体はなかった。




