【小さな師匠】3
そして僕はさっそく、その日の三時に起こされることになった。まるで罰ゲームみたいな話だ……。
妖気が回復し始めているせいなのかやたらと元気な豆狸に首輪とハーネスをつけて、僕は暗がりの中を駆けていく。
僕は豆狸のハーネスに括りつけたリードに引っ張られるようにして家の裏にある裏山の坂を行ったり来たり、さらには駅までクタクタになるまで走らされた。
「ペースが落ちてるぞっ! 楓!」
「おぇっ……」
出かける前に着替えたはずのシャツは汗だくになり、全身が悲鳴を上げている。
そんな僕にも容赦なく豆狸が吠えると、僕は従わずにはいられなかった。
……ちょっとでも気を抜くと恐ろしい体育教師の声で怒鳴るんだもんなあ……。
「よーし、休憩!」
豆狸の許しが出ると、僕は髪が汚れるのも気にせずその場に膝から崩れ落ちる。
裏山の頂上はさほど高くもなく、かと言って低すぎるわけでもない。
僕の暮らしているところは東妖市の中でもかなり田舎で、朝日を拝める程度の高さの山はゴロゴロある。僕らが登ってきたのはご先祖さまの所有していた──一応鬼道家の山だが……いつだったか酔っ払った親父が胡散臭い業者に騙されて山を売ってしまいそうになったことがあったな。殴って止めさせたけど。
「見ろ、楓。もうすぐ朝日が昇りそうだ」
「はあ、はあ……そんな余裕、ないよ……」
僕は全身の汗を春の風で冷やしながら大きく胸を上下させる。
清涼感のある青臭い雑草の匂いが鼻をくすぐった。
未だにガクガクと痙攣している膝を立てたまま、瞼を伏せる僕の傍に、ハーネスをつけた豆狸が駆け戻ってくる。
「へへ、体力ないなあ。 根性はそこそこあるけど」
「はあっ……悪かったな、貧弱で」
僕は豆狸に背を向けるように体を横にした。その時、どこからか微かな妖気を感じて、僕は弾かれたように上体を起こす。
「……この気配、妖怪か?」
「お、疲れててもさすがに分かるか」
豆狸は余裕そうに答えると、ヨチヨチと僕の傍に近づいてきた。
「夜ってのは妖怪の活動時間だ。しかも美味そうな人間と狸が無防備にうろついてたら……据え膳食わぬは妖怪の恥ってヤツだろ」
ぷぷ、と豆狸が笑う。そんなことわざは聞いたことがないけど……。
同時に雑木林の中から、ゆっくりと黒い影が現れた。おそらく、妖気の正体はこいつか。
大柄な体をした黒い影に顔はない。
全身、墨を流したように真っ黒な黒い影は僕をまっすぐに見つめているようだった。
「オオオオッ!」
咆哮した影が僕に向かって勢いよく突進してくる。
その獣じみた大きな声に怯んだ僕は、遅れて御札ケースから一枚の札を取り出した。
「き……急急如律令──煉獄炎ッ……」
そう言って一歩踏み出そうとした時、僕の靴が雑草で大きく滑る。同時に黒い影が僕の体を勢いよく押し倒してきた。
「かっ、楓ぇ!? 何やってんだよぅ!」
豆狸が素っ頓狂な声を上げる。
僕も驚いたし、何なら僕を押し倒した黒い影も驚いていた……。やってしまった、と言わんばかりに僕を押し倒したままオロオロしている。
しばらくの静寂の後に、長い沈黙を破ったのは黒い影だった。
「あー……やっぱりたった一日じゃこんなもんか」
そう呟いた黒い影の声と豆狸の声がシンクロする。
大きな影の声は、日熊先生のものによく似ていた。
「え、っと……?」
大きな影を見上げたまま状況が飲み込めずにいる僕に、豆狸がヨチヨチと歩み寄る。
「オイラの影──分身みたいなもんだよ。体を動かした後なら神経も研ぎ澄まされてるだろうから絶対イケると思ったんだけど……」
「イケるどころか戦う前から死んでるな、これは……」
豆狸の言葉に黒い影が日熊先生の声で同調する。何が起きたのか分からなくて目を丸くしていた僕は、黒い影に抱き起こされた。
「……なんか、ごめん」
「や、オイラもちゃんとお前の体力を考えるべきだったぜ……あんなに走ったんだからそりゃ疲れてるよな」
アハハと豆狸が苦笑して、影が気にするなと言うように僕の頭をわしわしと撫でる。
その時だった。
豆狸とも影とも違った妖気が、風のように僕の頬を撫でる。それは肌を刺すような殺気。
僕は思わず、影の腕を掴んだ。
「何か、来る」
「何かって──ッ!」
キョトンとした顔の豆狸の表情が強ばる。
きっと豆狸も気づいたんだろう。黒い影が僕を守るように抱き寄せてきた。
「──あァ、バレちゃった?」
ケケケと、どこからか風を震わせた笑い声が聞こえる。
「新米陰陽師の子守りなんて涙ぐましいねェ、大五郎サン」
そう言いながら現れたのは真っ赤な顔をした、とんでもなく大きな猿だった。
肩幅は日熊先生より大きいし、口は大きく裂けている。その体毛は黒と赤が混じっていた。
猿が暗がりの中から歩み寄ってくる。
「キミが柊のセガレなんだ? ……全然似てないケド」
やたら友好的に話しかけてきたその猿はニヤニヤ笑いながら近づいてくる。
僕を抱いた黒い影の腕に力がこもった。
「猿神……妖怪だ。それも面倒くさいタイプのな」
黒い影が日熊先生の声で教えてくれる。
すると、猿神と呼ばれた妖怪はわざとらしく大きな口に手を当てて笑った。
「アハハ! 面倒くさいって酷いなァ。ボクはただ……」
ひとしきり笑った猿神は、ゆっくりと手を下ろしてニィと目を細める。
空気が変わった、と感じたその瞬間。
「美味しそうな匂いがしたから起きてきただけだよッ!」
猿神が大きく口を開けると同時に、黒い影が僕から離れた。猿神の体に勢いよく体当たりをして、彼を食い止めたんだ。
同時に、手に掴んだままのリードが強く引っ張られた。
「楓っ、逃げるぞ!」
「え……た、戦わないのか?」
豆狸の言葉に、僕は狼狽えて御札ケースから出したままの札を握りしめるが、豆狸は口早に答えた。
「アイツはなッ、人喰い妖怪だ! 捕まったらお前なんか死んじゃうぞッ!」
そう叫んだ豆狸はすぐさま転がるように駆け出した。
リードを掴んだままの僕は、強く引っ張られて思わずつんのめりそうになる。
けど、今度は転ぶことなく足を踏み出すことが出来た。体は既にクタクタだけど、豆狸の形相はただ事じゃない。
「猿神は頭が良い妖怪でさ……いつだったか柊に退治されそうになった時、もう二度と人間は襲わない、許してください! なんて言って土下座してたんだぜ。オイラは絶対嘘だと思ってたけど!」
坂道を下りながら豆狸が叫ぶ。
どうやら、親父もアイツと戦ったことがあるようだ……。
「アイツは──猿神は、あの山に住んでるのか?」
「いや」
走りながら豆狸の背中に問いかける。
豆狸は一度かぶりを振ると、こう言った。
「アイツも、オイラと同じで人間に化けて暮らしてる妖怪なんだよ……何でこんな時間にこんな場所で──きゅう!」
僕を引っ張るようにして駆けていた豆狸のスピードが遅くなる。
「お、オイラの影がやられちまったみたいだ……まだ家まで距離があるのにぃ……」
豆狸はゼィゼィと荒い呼吸をしながら短い手足で地面を蹴る。
おそるおそる後方に振り返ると、大きな毛むくじゃらの猿が真っ直ぐに駆けてきているのが分かった。
「アイツ……強いのか!?」
「今のオイラには無理っ! けど鬼道家には結界が貼ってあるからっ、いくら猿神でも入ってこられない! だからもーちょい頑張れっ!」
豆狸が僕に答える。
転がるように山道を駆け下りていく僕を先導していた豆狸の顔に疲労の色が浮かんでいるのが分かった。正直僕もとっくに体力の限界をこえている。
「ねえ、それで逃げてるつもりかい?」
頭上から声が聞こえて思わず立ち止まると、木々にぶら下がって僕達を見下ろす巨大な猿の姿があった。
猿神はニタニタと笑みを浮かべながら長い腕を揺らしている。
「に、逃げてねえ! 誰がお前なんか相手にするかい!」
豆狸が茶色の混じった白い毛を逆立てて声を荒らげると、猿神はケラケラと笑いながら豆狸を見下ろした。
「大五郎サンに用はないよ。ボクが食べたいのはそっちの人間なんだから」
猿神に指をさされた僕は、まるで金縛りにでも遭ったかのように動けなくなる。いや、本当に身動きができない……!?
これが猿神の力なのか……?
「や、やべぇ……猿神の射程距離に入っちまったのか!?」
豆狸が僕を見上げて、後ずさりながら舌打ちをする。
猿神はそれ以上近づいてくることはせず、ニヤニヤと笑って僕をまっすぐに見つめた。
「若くて健康で、しかも鬼道家の陰陽師だもん……さぞかし血肉も美味しいだろうね。昨日食べた陰陽師のオジサンはあんまり美味しくなかったし。やっぱり動物も人間も、子供の肉が一番だよ」
「陰陽師……? も、もしかしてニュースで流れてたあの人、お前が……」
おそるおそる問いかけると、猿神はニタリと笑って腹をさすってみせた。
「どうしても陰陽師の霊気が欲しいって言われてさ、ついでだから食べちゃったよね。肉はかたくておいしくなかったけど」
ケケ、と耳障りな声で猿神が笑う。
欲しいって言われた……? 誰かに頼まれたってことなのか?
「お、お前……誰かに仕えてるのか?」
「仕えちゃいないよ。──サンがどうしてもボクの手を貸してほしいって言ったから手伝ってあげただけサ」
猿神が曖昧に長い手を揺らしながら答える。けれど、首謀者の名前がよく聞こえなくて、僕はさらに問いかけようとした。
「楓! 相手にすんな! アイツの目を見ちゃダメだっ!」
慌てて豆狸が僕の足にしがみついてくる。
同時に、木から降りてきた猿神がニヤリと笑って人差し指を僕へ向けた。
「ザンネン。もう遅いよ」
チカッ、と猿神の指先が光る。
「楓っ!」
大声と共に豆狸が体当たりをしてきた。
思いのほか強い体当たりで突き飛ばされた僕がその場に倒れ込むと、遅れて豆狸の体がコロンと足元に転がる。
同時に、僕の体に自由が戻ってきた。
「……っつ、すまない……ありがとう、豆狸」
そう声をかけるが、豆狸からの返事がない。
ゆっくりと体を起こして豆狸の傍に近づくと、彼の毛皮が不自然に赤く染まっているのがわかった。
これは、何だ……?
「あーあ、呆気ないねェ……人間なんか庇うから」
猿神が呆れたように笑うが、僕の耳には入ってこなかった。
動かなくなった豆狸をおそるおそる抱きかかえてみるが、彼は何の反応も示さない。
猿神がペラペラと、やれ残念だとか何とか話しているが、僕の耳には届かなかった。
香ばしくて獣臭いにおいが、鉄の錆び付いたにおいへと変わっていく。
「嘘、だろ……」
そう言葉に出すと、驚くほど僕の声が震えているのがわかった。
目の前で何も言わない豆狸の姿が、誰かとダブって見える。
真っ赤な血溜まりの中で倒れた誰かの姿が、僕の脳裏に蘇ってきた。
『あ……』
車のタイヤが、激しく人を引き摺った跡が道路いっぱいに広がっていて、幼い僕はそれを誰かと見ている。
目の前で物言わぬそれが誰なのか、どうしても思い出せないけれど、目の前で倒れた白い服が真っ赤に染まっていく様子は、まるで昨日のことのようにとてもリアルで。
『ざまあみろ……』
呪いを吐くような声が耳元で聞こえたその瞬間、僕の目には腕の中で事切れた豆狸が映っていた。




