【思ひ染む 逆さ芙蓉の 鬼子母神】3
簡単あらすじ
・江都の計らいで狐輪教から逃げ出した猿神は、鬼道家で杏珠を救った。
・その後、江都、紅葉と共に関東へ戻った猿神は、八重花の助力で再び狐輪教の本拠地へやって来る。しかしそこには猿神と江都以外誰もいないようで……?
夢現の中で、誰かに頭を撫でられている。思い出の中の少女よりも少し大きくて、少女と同じ手のひらのぬくもり。
まるで、生まれたばかりの頃に戻ったようだと少女は思った。言葉も知らないほど小さな獣だった少女を、ゆりかごの中で優しく撫でてくれたあの手だ。
うっすらと目を開けると、すぐ傍に何者かの気配を感じた。
「──気がついた?」
妙齢の女が笑っている。どこか懐かしいその面影を、少女はぼんやりと見つめていた。
「おねえ、ちゃ……」
寝ぼけて咄嗟に口から出た言葉を、慌てて飲み込む。そんな少女を見て、女は目を細めて笑った。
「あら嬉しい。もうお姉ちゃんなんて年じゃないのに」
「い、言ってないッ!」
もう一度頭を撫でられて、少女の姿をした異形は叫びながら上体を起こす。こんな場面を、あの陰陽師に見られたら殺したくなる。
そもそも、水の路はふたりで通ってきたわけではないのだから。
「ぼ、ボク、ちゃんと起きてたしッ……疲れてるのかも」
苦し紛れに独り言のような言い訳を口にして、少女は唇を尖らせる。
いつの間に眠り込んでいたのかよく覚えていないが、水の路を抜けた直後の記憶が曖昧だ。
「ここは、磁場が不安定な場所だからね……あんたみたいな存在は、特に影響を受けやすいんだよ」
「べ、別にフォローしなくていいし……」
猿神は、恥ずかしさをごまかすように小声で文句を垂れながら周囲に視線を向ける。
そこは、鬱蒼と茂った樹海。昼間だというのに辺りは夜のように暗く、瘴気が立ち込めている。
鬱蒼とした木々の合間を覗くと、崖が見えた。崖の下には暗い雲海が広がっており、さらにその奥には山の頂上が覗いている。
今立っているこの場所も山の一部のはずなのに、頂上が見えるのはおかしな話だ。
「ここは、裏芙蓉。あんたも一度、結界を通ってここに来たでしょ。思い出した?」
猿神の背中から女が声をかける。共に水の路を通ってきた仙北屋江都だ。猿神は、記憶を思い起こしながら辺りを見回す。
以前、京都で結界に入った時、食事にばかり気を取られて肝心の場所には見向きもしなかった。そのせいで、全くといって良いほど記憶にない。
「裏芙蓉って、何?」
先程よりも声のトーンを落として、猿神が尋ねる。
「日本の霊峰を模して、アイツらが作り上げた場所」
江都の言う通り、山の底に広がる雲海には、誰もが知る山の頂上が突き出ていた。
あの山の美しさは、猿神も当然知っている。
「詳しい原理は知らないけど、尾崎のご当主が御神体の力を使って作ったらしい。要はこの世でもあの世でもない、ちょっとあの世寄りの世界って感じね」
江都の話を聞きながら、猿神はしばらく山の下を見つめていた。
どこまでも広がる雲海に、ぽこりと突き出た芙蓉の姿。どれも美しく、圧巻の風景のはずだ。それなのに、言いしれない恐怖が胸を渦巻く。
ここから飛び降りたら、どうなるのだろう。落下の途中で意識が無くなって、頂上に叩きつけられるだろうか。それとも──。
(あ……ダメだ、これ)
堕ちてはいけない。覗いてはいけない。
常識的に考えれば分かることなのに、体は前のめりになってしまう。
逆さまになった神秘の山に、引き寄せられてしまう。
「日吉」
その声とともに、襟を強く引き寄せられた。呆気なく地面にしりもちをついた猿神は、いつの間にか乱れていた呼吸を必死に整えて、脳に酸素を送る。
あと少しで、呼吸の仕方すら忘れるところだった。
「先を急ぐよ」
江都はそう言って、来た道を引き返していく。
嫌な汗が、こめかみを流れていた。




