【思ひ染む 逆さ芙蓉の 鬼子母神】2
簡単あらすじ
・京都へ到着した日、鬼道紅葉に叩きのめされた猿神は、屈辱感で楓の前から姿を消してしまう。
・腹を空かせて山をさまよう中、奇妙な行列を見つける。行列の先には結界があり、そこでは多くの信徒たちが猿神を快く迎え入れるが、不意をつかれて棺に閉じ込められてしまう。仙北屋江都によって胸に釘を打ち込まれ、自由を奪われた猿神は……。
棺の中で意識を失って、どれくらいの時間が過ぎたのだろう。体毛が擦れて、かゆい上に息苦しい。
胸に釘を打ち込まれた瞬間、妖力がコントロールできなくなった少女の体は異常なほど体毛が伸び、中途半端に獣化した姿となっている。
絶対に、この醜い姿で外に出たくない。
そんなことを考える彼女の気持ちなど知らず、棺の外では不快な談笑が不気味にこだましていた。
「あの白い猿ですがねぇ、剥製にしてホールに飾りませんか? きっと迫力がありますよぉ」
耳障りな、下卑た男の声が聞こえる。会話の相手は、どうやら子供。確か、狐輪教の狐白と呼ばれていた。
食事に夢中ですっかり忘れていたが、御花畑親子が追っていたとされる宗教の名前が狐輪教ではなかったか。
(完全に忘れてたヨ……)
猿神はため息をつきながら、棺の外の声に聞き耳を立てる。
「残念ですが……葛西先生、白猿様はお母様への供物にしたいのです」
「最悪毛皮だけ残っていれば作らせますけど、如何です? 1000万くらいで」
猿神は、怒りでどうにかなりそうになるのを、必死に唇を噛んでこらえた。胸に刺さったものに触れようとするが、引き抜こうとすると全身から力が抜けてしまい、再び意識を失いそうになる。どうやら、自力でこの呪具から逃れることはできないらしい。
(あの女、絶対殺してやる……)
自分に釘を打ち付けた女のことを思い出して、ふつふつと殺意を募らせる。そうでもしないと、暗所に閉じ込められている恐怖で気が変になりそうだ。
募る殺意で、棺の中の温度はますます上がり、次第に頭がクラクラしてきた頃──葛西はようやく部屋からいなくなったようだ。
室内にいるのは、おそらくひとり……狐白の気配だろう。
「冷房の設定を下げました。後で換気もさせますよ」
狐白の手が、ゆっくりと棺の蓋を撫でる音。猿神は低い唸り声を上げて、せめてもの殺意を剥き出しにする。
くす、と狐白が笑う気配がした。
「どうぶつたちの祖とも言うべき白猿様を、このような狭い場所に閉じ込めておくのは胸が痛みます。ですが、どうか怒りを鎮めてくださいませ」
狐白は、猿神をなだめるように優しい声で言う。
「共に、お母様の供物となりましょう」
その狂気じみた囁きに、背筋がぞくっとした。
このまま力が戻らなければ、訳の分からない儀式に利用されて殺されてしまう。それだけは絶対に嫌だった。
(やだ、やだ……死にたくないッ!)
パニックになったように、猿神は足をばたつかせながら唸り声を上げる。恥もプライドも捨てて、いつものように命乞いをしたいのに、舌が上手く回らない。
「た……助け、て……」
恐怖で震える舌を必死に動かし、何とかして助けを求めようとする猿神の声に被るように、着信音が響いた。
狐白は、棺の傍で電話に応じる。
「もしもし」
『──儀式は順調か?』
聞きなれない低音が、猿神の耳にも聞こえた。電話の相手は、先程の葛西という人物よりも、ずいぶん年配の男らしい。
「滞りなく進んでいます、柚蔵様」
狐白の声が棺から離れる。床を歩く足音が、棺の周りをゆっくりと動いた。
「あなた様の協力が無くては、狐輪教がここまで大きな組織となることはできませんでした。本当にありがとうございます」
猿神のことなどそっちのけで、狐白は電話の男との会話に興じている。しかしその温度感は、あまり親密な関係とは言い難い。
『俺と貴様は、互いの目的のために利用し合っているだけに過ぎん』
低い声が冷たく応えた。狐白は小さく笑って『そうでしょうか』と返事をする。
そして、棺の中の猿神に聞かせるかのように言い放った。
「私は嬉しいです。鬼道家の次期当主である柚蔵様にご助力いただけたことが……」
鬼道という言葉に、猿神の体はビクッと痙攣する。
電話の相手は鬼道家の人間だった。それも、柊や紅葉よりも年上。遠縁か兄弟か──どちらにしても、陰陽師であることは間違いない。
(何で、鬼道家の陰陽師と狐輪教が手を組んでんの?)
状況が分からないまま、猿神はしばらく聞き耳を立てていたが、狐白は男と会話をしながらゆっくりとその場から離れていく。
ほどなくして、人の気配がなくなったのを感じた。
しん、と静まり返った空間。
いっそう、狭い箱の中に閉じ込められたという事実が、恐怖に変わっていく。
声も上げられない状況が、もどかしくてたまらない。唸り声すらも、蚊の鳴くような微かな音になってしまう。
今すぐ逃げ出したいのに、体が痺れて自由がきかない。
それでも懸命に力を振り絞って、棺の内側に両手を伸ばそうとしたその時──突然目の前が明るくなった。誰かが棺の蓋を退かしたのだ。
「よし、生きてるね」
猿神の釘を打ち込んで、棺に閉じ込めた女がそこにいた。
以前にも、御花畑親子誘拐事件で楓と共に戦ったことがある匂いだ。
「おねえ、ちゃん……?」
あの時は狐の面をつけていたが、その素顔は思い出の中の少女によく似ている。
「言いたいことはたくさんあるだろうけど、ステイ。私はあんたに危害を加える気はないからね」
彼女はそう言って、猿神の体を抱き起こすように棺から出した。
ほっそりとした腕はすっかり白い毛に覆われ、全身が猿へと変化している。
よりにもよって、自分のいちばん嫌いな姿。醜悪な毛。それを見ると、無性にムカムカしてきた。
自分をこんな目に遭わせたこの女を、今すぐ食い殺してやりたいところだが、猿神には彼女を殺せない。
体に力が入らないのはもちろんだが、彼の中の何かが、彼女に手を出してはいけないと警報を発しているようだった。
せめて、めいっぱいの反抗心を表すように、鼻を鳴らしてそっぽを向いてやる。
「……っは。人間のくせに頭が回るんだネ。ボクをこんな不細工な姿にしたくせに」
そんな猿神の様子を見ても、女は飄々とした様子だ。
「そうでもしなきゃ、剥製にされるくらいじゃ済まないのよ。むしろその姿に感謝してちょうだいな」
女の言いようには腹が立つが、人間たちに好き勝手されるのはもっと腹が立つ。剥製など以ての外だ。
奴らの娯楽のためだけに生皮を剥がされるだなんて、想像するだけではらわたが煮えくり返るような心地がした。
「……それで、ボクをどうしたいの?」
何とか怒りを抑えて、引きつった顔で尋ねる。女は目を細めて笑うと、毛むくじゃらになったその手を軽く握った。
中途半端に猿化していた体は、すっかり大猿に戻っている。すべすべの腕も細い足も醜く変貌していて、本当に最悪だ。
「ここから逃がしてあげる代わりに、ちょっと私に手を貸して欲しい」
猿神が本来の姿を人前に晒すことは、情けなく命乞いをする行為よりも嫌だ。恥ずかしくて、みっともなくてたまらない。
なのに、この女への憎悪はなかった。
それどころか──。
「……協力の内容によるよ」
ふてくされた子供のように、従順になってしまう。
「こっちだよ」
ひとまず交渉成立と判断して、女は見張りがいないことを確認してから、部屋の外に猿神を呼び寄せた。
建物内部は途方もなく広々とした空間で、そこかしこに扉があったが、女は迷うことなく猿神を導いていく。
やがて猿神が招かれたのは、これまでの無機質な建物のイメージとは違う、ビジネスホテルの一室のような部屋だった。
中にはベッドはもちろん、シャワーやトイレもあり、テレビも備え付けられている。
「何ここ」
「私の部屋」
女はそう言って、冷蔵庫から取り出した缶ビールとコーラのペットボトルを1本ずつ手に取る。
「ひとまず──今夜はここに身を隠して。狐白は儀式の準備で忙しいから棺には近づかないだろうし……私も色々準備があるから」
猿神は、差し出されたコーラを受け取りながら女の話を聞いていた。太い猿の指でキャップを掴み、くるくると器用に捻る。
こういう時、人間のような手指があって良かったと思う。もしもこれが犬や猫の手だったら、上手く力が入らずにキャップを開けられなかっただろうから。
「ぷはァ」
コーラはそれほど冷えていなかったが、狭い棺の中に閉じ込められていたせいか、とても美味しく感じた。
「はは、いい飲みっぷり」
女が笑う。それが何だか気恥ずかしくて、猿神は背中を向ける。
「……で、ボクに何をさせたいの?」
女は、ビール缶のプルタブに引っ掛けた指を止めた。その視線が泳ぐ様を、猿神が背中を向けたまま静かに窺う。
やがて、静かにプルタブが押し開けられた。
「助けたい女の子がいる」
それまでの飄々とした態度を抑えて、女がぽつりと呟く。
彼女の話によるとこうだ。
彼女にとって、娘のような存在だと言うその少女の名は、鬼道杏珠。杏珠とは長い間師弟の関係で共に暮らしていたが、今年で16歳となった杏珠は生家に戻された。
柚蔵の子供を、産むために。
「約束してんの。この仕事が終わったら迎えに行くって」
女の手が、ビール缶を強く握りしめる。その感情の詳細について、彼女は多くを語らない。けれど、杏珠の運命を変えたいと思う気持ちだけは、猿神にも伝わっていた。
分かりたくなくても、分かってしまう。人間よりずっと頭が良くて、妖怪よりもずっと人間らしい心を持った自分には。
「死亡フラグじゃん」
だから、わざとらしく茶化した。
つくづく呆れてしまう。人間とは、こうも生き急ぐタイプしかいないのだろうかと。
ただの獣だった彼女に人の言葉を教え、胸いっぱいの愛情を注いでくれたあの少女も、そういう人間だった。
もし、彼女の運命を変えることができたなら──今頃はもう少し素直に、人間と寄り添える存在だったかもしれない。
「まあ……いいや──付き合ってあげる」
飲み干したコーラのペットボトルを、ぐしゃりと手で潰した猿神は、女の手に握られていたビール缶をひょいっとつまみ上げる。
「ボクがそのコを助けてあげるヨ。報酬は……その陰陽師の心臓で良いや」
悪意たっぷりの笑みを浮かべて一気にビールを飲み干した猿神は、紙くずのようにアルミ缶を握りつぶした。




