【夏帽子 君の横顔 閉ざす窓】7
簡単あらすじ
・十万億土への道を歩き始めた楓は、椋の幻影と対峙する。激しい戦いの中、目の前に現れた1本の剣。
・暗闇の先に待つのは、運命を変える出口──。
『もういいかーい?』
優しい声がすぐ傍で聞こえる。幼子は、暗闇の中で体育座りをしたまま、笑ってしまいそうになるのをこらえた。
我が家はかくれんぼに最適だ。部屋数なら友達の家にも負けない。屋根裏や蔵まで、隠れるところなんて山ほどある。
そんな中、自分がこんなにも分かりやすい場所に隠れているなんて思わないだろう。
『もういいよー!』
なるべく遠くにいるのだと錯覚させるように、背中を向けて返事をしてみる。
きっとあの人は自分を見つけられない。悪戯っぽく笑った幼子の期待は、あっさりと裏切られた。
音を立てないように締め切った押し入れの戸に光が差し込む。
『あーあ、もう見つかっちゃった』
幼子はそう言って押し入れから出てくると、目の前の白いワンピースに抱きついた。
優しい匂い。そして、世界で一番大好きな人のぬくもりだ。
『つぎは、ぼくがおにだからね! ぼく、みつけるのじょうずなんだぁ』
そう言って顔を上げる。少し眩しくて目を細めてしまったが、目の前の女性が愛情いっぱいの眼差しで優しく微笑んでいることくらい彼にも分かる。
その証拠に、大好きな手が幼子の頭を撫でた。
『早く見つけてね、小さな王子様』
子守唄のような優しい声は、誰かに似ている。それを思い出そうとした時、彼の意識はふと現実に引き戻された。
「お疲れ様、鬼道楓」
自分を見上げる幼い子供の姿が、暗闇の中でぼんやりと光っている。
鳥居を抜けた瞬間、何かが楓の脳裏を通り過ぎて行った。それは死の直前に見る走馬灯のように、とても幸せで優しい感覚。
「散歩はどうだった? 自分と向き合えたかな」
惚けた様子の楓に、澄真が問いかけてくる。楓は答えようとして口を開いたが、返事はひどく小さなものだった。
「……まだ、わからない」
素直な気持ちを、ぽつりと吐露する。
椋の言う通り、自分は落ちこぼれなのだろう。鬼道の血に呪われた、最弱の陰陽師。
周囲から浴びせられた心無い言葉──それは自分自身にかけた呪いとなって、いつしか彼の中に深く根付いていた。それは容易く断ち切れるようなものではなく、どれだけ時間が経っても切り離せない。
「だけど……この呪いと向き合って生きていきたい。捨てられなくても、断ち切れなくても、これは僕の一部なんだって……今は、そう思う」
握ったままの剣を見つめて楓が答えた。椋との戦いの中で顕現した不思議な黒い剣は、楓の手の中で微かな光を放っている。
それを微笑ましそうに見つめた澄真は、ふにゃっと笑って手を伸ばした。
「そっか。えらいね、楓」
それは、孫を褒めるような声色。伸ばされた手に合わせるように、楓は自然と膝を着いた。
小さな手が、優しく楓の頭を撫でる。
「きっとこれからも、きみには辛いことや悲しいことが待っている。けれど……きみは自分が思っているよりずっと強い子だから、大丈夫。乗り越えられるよ」
瞼を伏せた楓の脳裏に浮かぶのは、これまで戦ってきた1年間のこと。どれも、楓ひとりの力だけではなく、冥鬼や柊、豆狸、部活メンバー、黒丸、キイチに八雲、猿神──そしてハク。
様々な人の助けがあって、自分は今日も生きている。
「あなたに言われると、本当に乗り越えられそうな気がしてくるな」
まるで、まじないにも掛かったような心地だ。嬉しそうに目を細めた澄真は、楓の頭から手を離して黒い剣の刀身に触れた。
椋との戦いの最中、突然姿を現した剣。
記憶は朧気だが、以前魂喰蝶と戦った時も、この剣を手にしたような気がする。
「これはきみの物だよ。厳密には常夜の宝剣の一振りなんだけどね──私が盗んで子孫にあげちゃった」
幼い子供の指が、黒く冷たい刀身をなぞった。
「黒宵剣は私より気まぐれな子だけど、持ち主のことは絶対に守ってくれる。親から子──命よりも大切な存在へ、ずっと受け継がれてきたものだ」
澄真は、そう言って軽く指を鳴らす。彼の手の中に、鮮血で染めたような赤い鞘が出現した。そして刀身に鞘をあてがい、静かに納めていく。
「大切にするんだよ」
赤い鞘に納められた黒宵剣は、黒い霊符へ変わる。楓が霊符を受け取ると、それは黒い煤となって消えた。
楓が再び黒宵剣を必要とした時、すぐにまたその姿を見せるのだろう。
「ふふ」
澄真は目を細めて微笑み、おもむろに楓の背後を指した。
そこには、今まで見たこともない巨大な鳥居が佇んでいる。
「ここを抜けると、きみの時間に戻れる」
それは、これまでの鳥居とは違って不思議な懐かしさを感じた。おそらくその感覚は、鳥居の向こう側が、楓のよく知る世界に繋がっているからだろう。
「本来、ここは時間の捻れた場所だ。長居するのに向いてないんだよ。普通の人間なら、気が狂ってしまうからね」
澄真は恐ろしいことを笑顔で言ってのける。彼の言うことが事実なら、いつまでも留まっているわけにはいかないだろう。
それに──何故か胸騒ぎがする。
「本当に、色々とありがとう」
楓は深く頭を下げた。ふと、暗闇の底に落ちる直前まで戦った鬼のことを思い出したが、この場には楓と澄真以外誰もいない。ただ、冷たい暗闇がどこまでも広がっているだけだ。
「どういたしまして」
嬉しそうに笑った澄真に目配せをして、楓は鳥居に向かって歩き出す。巨大な鳥居を抜けた時、微かな風の匂いを感じた。心做しか、踏みしめた暗闇の地面も感触が違う。
少しずつ、本来の時間へ近づいているのだろう。
早く帰りたい一心で、足取りも軽くなる。そんな楓の背後──遥か遠くから、澄真の声が聞こえた。
「鬼道楓、覚えておいて。ここで得た、力には、限りが、あるから──」
まるで壊れたラジオのように、澄真の声は途切れ途切れだった。聞き返そうとして立ち止まりかけるが、今ここで振り返ってしまえば前後の感覚すら分からなくなってしまいそうだ。
振り返らずに前へと歩を進める楓の後ろから、小さな澄真の声だけが聞こえる。
「でも──ここで得た経験は、きっと、きみの人生で、役に……」
ぷつり、と。
まるで電波が途切れたように、澄真の声が完全に聞こえなくなった。
ひたすら前へと進む楓の周囲には、やがて白い霧が立ち込めていく。暗闇の世界を塗りつぶすように。
「おーい」
白い霧の先から聞き覚えのある声がして目をこらす。
見知ったシルエットが、楓に向かって手を振っていた。霧をかき分けるようにして近づいた楓は、その姿を見て安堵する。
「やあ、楓殿。迎えに来たよ」
こめかみにアザを持つ、大柄な体躯の坊主。紅葉の付き人である紅だ。
何故彼がここにいるのか──それを問う前に、坊主はまるで道案内をするように歩き始める。楓は、慌てて後に続いた。
霧に覆われた道は視界が悪く、坊主の姿さえ朧気だ。
「待ってください、紅さ──」
置いていかれないように、はぐれないように、自然と駆け足になる。
一層濃くなる霧は自分の足元さえも見えなくなり、とうとう坊主の姿を捉えることができなくなった時──。
視界が開けた。
目の前に広がっていたのは、どこまでも広がる雲海。
自分はまだ、十万億土の道を彷徨っているのだろうか……とぼんやり思った。
「どこ見てんだよ。こっちだ」
見知った声がして振り返ると、そこにいたのは叔父、鬼道紅葉だ。楓の足元には、白灰で描かれたのであろう巨大な術式が、精巧に刻まれている。
「ったく、だりぃ真似させやがって」
紅葉は欠伸混じりに言い、自分の袖の中を探りながら続けた。
「説明する時間がだりぃわ。端折る」
そう言って、レモンバターサンドを半分に折るが──その柔らかな菓子はいびつに崩れ、明らかに大きさに偏りがある。
紅葉は、迷うことなく小さなバターサンドを楓に差し出した。
「今からオレが指定する場所に向かえ。最高に格好いい見せ場をくれてやる」
そう言って笑った紅葉は、相変わらず人相が悪い。しかし、今はそれが何より頼もしかった。




