【小さな師匠】2
「……臭い」
布団に消臭スプレーをかけながら僕は不機嫌に呟く。
目が覚めたら布団の中は毛だらけだし、獣特有の臭いが酷くてとんでもない有様だった。とてもじゃないが、こんな布団で今夜も寝たいと思えない。
「もー! 楓がオイラのこと離さなかったんだろ!」
「語弊がある言い方は止めろ。ああでもしないと僕の耳元で駆け回ってうるさかったくせに」
シーツと枕カバーを洗濯機に放り込んで文句を言い合う僕達の騒がしさに起きてきたのか、寝癖を手で掻き乱しながら親父が一階へ降りてきた。
「んだよ……朝からギャアギャアと。痴話喧嘩か?」
「親父──今日ケージ買ってきて、動物用の」
「何でだよー! オイラは楓のためを思って言ってるんじゃんかー!」
キャンキャンと豆狸が喚いている。それは朝飯の支度をする時もそうだったし、何なら朝飯の最中もだった。
「なあなあ、なら明日は? 明後日休みだろ?」
豆狸は栄養満点のドッグフードを美味そうに食べながら問いかけてくる。豆狸は犬じゃないし、というか妖怪なんだけど……ご飯はドッグフードで充分らしい。仮にも人間社会で生きてるくせに犬の餌でいいのか……。
僕は横目で豆狸を見ると、漬物を頬張りながら短く一言『嫌だ』とだけ答えた。
行儀よくきちんと座ってご飯を食べている冥鬼が緋色の瞳を丸くする。
「おにーちゃん、くまちゃんのこときらい?」
「冥鬼も夜中の三時に叩き起されて布団の中を獣臭でいっぱいにされてごらん、嫌いになるから」
「布団の中に引っ張ってきたのは楓だってばー!」
豆狸が唇を尖らせてぶーぶー言っている。
そんなやりとりを聞き流しながらテレビを見ていた親父がぽつりと呟いた。
「楓、お前ちょっくら大五郎に付き合ってやれ」
「え? 何で親父まで……」
そう言いかけたが、親父は割とマジな顔をしてテレビを見つめていた。
何となくテレビを見ると、男性が路上で何者かに殺されたと顔写真付きで大きく報道されていた。
死因は他殺で犯行時間は夜中。刃物のようなもので体を切り裂かれ、肉が食いちぎられていて骨が露出していたという。……おいおい、朝からなんてニュースを流すんだよ……。
「柊、この殺害方法は……」
魔鬼の言葉に親父はテレビを見つめたままなにも答えない。
返事の代わりに、漬物をバリバリと頬張る音が聞こえた。
「な、なんだよ……」
突然黙ってしまった親父へ声をかけると、やがて親父は箸を置いて僕に視線を向ける。
口の中のものを飲み込んだ親父は、ぶっきらぼうに言った。
「楓、お前──二の腕見せてみろ」
「え?」
何を言われたのか分からなくて聞き返すと、親父は自分の二の腕を無言で指す。
僕は親父に言われるまま制服のボタンを外して一度脱いでから、中のシャツも袖のボタンを外そうとした──のだが、そこまでしなくていいと言われて、シャツ越しの二の腕を片手で掴まれる。
親父は僕の二の腕を片手で掴むと、腕の太さを確かめるかのように何度か力を込めて握った。
「かぁ〜、ほっせぇな。腕立て伏せも追加だ、大五郎」
「あいよ〜!」
親父の言葉に豆狸が威勢のいい声を上げた。
「今日から大五郎はお前の師匠だ。師匠の言うことは絶対聞け。散歩だか何だか知らねえが付き合ってやりな」
「そ、そんな……むちゃくちゃな……」
制服を羽織りながら唇を尖らせている僕の傍に黒い尻尾を揺らした魔鬼が近づいてくる。
「戦いでは体力や筋力も重要視される。亀のように鈍い敵など早々おらぬからな──これも修行ということだ」
魔鬼はそう言って僕の傍まで来ると、前足を揃えて行儀よくその場に座った。
「だが──さすがに毎日ではキツいものがあるだろう。まずは週末から始めてみたらどうだ?」
親父が父親なら魔鬼は母親……そんな言葉がピッタリだと思う。昔から彼は僕に無理強いをさせることはしない。どちらかというと……むちゃくちゃを言うのは親父の方だ。
僕はそんな魔鬼の提案を受け入れるように彼に手を伸ばした。魔鬼が目を細めて、自ら頭を差し出す。
「……わかった。じゃあ──週末から始めてみる」
そう答えて手の下に潜り込んできた黒猫を優しく撫でると、アイツはゴロゴロと喉を鳴らして満足げに頷いた。
僕の返事を聞いた豆狸は犬用の皿に顔を突っ込んで勢いよくドッグフードを平らげるなり、明日の修行内容を考えてくると言って興奮気味に飛び出していった……忙しい奴だ。っていうか使った食器くらい片付けてくれよ……。
ちらりとテレビを見ると、既に物騒なニュースは今日の占いに切り替わっていた。
路上で大胆にも人の肉を食らう殺人事件……魔鬼や親父の反応からして、これは妖怪の仕業なのかもしれない。もしそうだったら……僕は倒せるのだろうか?
魂喰蝶を倒した時の記憶はほとんど忘れてしまっているけど、あれを倒したのは間違いなく僕だ。でも、今アイツを倒せと言われても倒せる気がしない……どころか、一瞬で負ける気さえしてる。
「……」
右手の数珠を手のひらで触ってみる。けれど、今は何の反応も示さなかった。
あの時、僕はこの数珠を使って何かをした……ように思うんだけど……。ダメだ、やっぱり思い出せない。
魂喰蝶を倒した僕は、本当に僕だったのだろうか?
僕は本当に、『鬼道楓』なのか?
「……っ、やめよう」
思わず身震いをしてしまって、慌ててかぶりを振る。
変なことを考えるのは僕の悪い癖だ。
僕は無理やりその考えを排除して、鳥肌の立ってしまった腕を軽くさすった。




