【夏帽子 君の横顔 閉ざす窓】3
簡単あらすじ
・鬼道楓は京都での修行中に父の実家に立ち寄るが、殺人事件に巻き込まれてしまう。藤之助と共に犯人を探していたが、鬼道家4男である椋に襲われて生死不明となった。
・紅葉が江都と猿神を連れて関東へ向かったため、現在鬼道家にいるのは松蔭、杏珠、藤之助たちとなっており、松蔭は地下室で楓の行方を探している。
「げほっ、ごほっ……」
水を流す音に、嗚咽する少女の声がかき消される。口の中に指を突っ込んで、胃の中のものを全て吐き出したくてたまらない。吐けるものなど、既に出し切ってしまったというのに。
長い黒髪をゆっくりとかきあげた少女は、呼吸を整えながら顔を上げた。
鏡の中には、虚ろな赤い瞳に、青白い肌の少女がいる。肌の露出を避けるように肩から手首までぐるぐると巻かれた包帯は、まるでミイラのようだと──鬼道杏珠は我ながら思った。
包帯を巻く理由となっていた姉は、もうこの世にいない。それなのに杏珠は、未だに肌を包帯で覆っている。
鬼道家に帰ってきてから3ヶ月余り。原因不明の吐き気と、体の不調が続いている。
その理由に、ひとつだけ心当たりがあるとすれば──。
「ちー?」
いつの間にか、洗面器の縁に雀が止まっている。いつも藤之助が連れている雀のチー太だ。
まだ吐き気の残る杏珠は、腹部に手を添えて少し俯いていたが、チー太が近づいてきたことに気づいて手を差し出した。
手のひらに乗ってきたチー太を見つめた杏珠は、静かに瞬きを返す。言葉は分からないか、チー太が杏珠の体を心配していることくらいわかる。
「お師匠様にも、藤之助にも、言えないの」
杏珠が、ぽつりと呟く。
自分のことを本当の娘のようにかわいがってくれた師に、そして──藤之助に話せるはずがない。彼らはとても怒るだろう。自分を傷つけたあの男を憎むかもしれない。……呪ってしまうかもしれない。
それでも──。
「私、この子を殺したくない」
そう呟いて痩せた腹を撫でる少女を、チー太は何も言わずに見つめていた。
望まぬ形で宿した命だとしても、例えその子の体に流れるのが穢れた血であっても、罪はない。
やがて杏珠の身を案じるように、小さな体を手のひらに擦り寄せてくる。それだけで、杏珠には充分だった。
「やっと追いついた……って杏珠もいたのかよ」
ぶっきらぼうな声とともに、脱衣所の戸が開かれる。驚いて羽音を立てるチー太を不思議そうに見つめているのは、鬼道藤之助。
柚蔵や杏珠とは、浅からぬ血で繋がっている少年だ。
「水の無駄遣いも良いとこだな。どんだけ顔を洗ったってブスはブスなのにさ」
藤之助の嫌味は、さながら生前の橙子のようだ。橙子と違うのは、藤之助の発言には年相応の甘えが隠されていること。
「ちー!」
「な、何だよ、本当のことだろ」
チー太がたしなめるようにひと鳴きすると、それに怯んだ藤之助がぷいっと顔を背ける。
叱られてバツが悪いのか、鳶色の瞳は遠慮がちに杏珠の顔色を窺っていた。
「……具合でも悪いのかよ?」
杏珠が小さくかぶりを振る。藤之助は杏珠の顔色を注意深く窺っていたが、それ以上追求しようとはしなかった。
隠し事が嫌いな藤之助のことだから、多少乱暴をしてでも問いただしたいのだろう。けれど、またチー太に怒られるのは嫌らしい。
「私は、大丈夫」
「……あっそ。暇なら俺の部屋に本でも読みに来いよ。どうする?」
藤之助はチラリと杏珠の様子を横目で見ながら不器用なお誘いをする。杏珠はチー太と顔を見合わせると、藤之助の部屋に向かうことを決めた。
窓から差し込む陽の光は、夕方に差し掛かってもなお、高い。
紅葉たちが関東に向かってから、半日が経過した。残された松蔭は、今も地下で楓の捜索をしている。
椋に殺害されたといわれる楓だが、その死体は誰も見ていない。松蔭自身も、楓の死体を《始末》した後の椋から聞いたという。
『楓さん、殺されたらしいですよ』
化け物を退けてすぐ、紅葉や江都たちに藤之助が事情を説明すると、そんな大前提を覆すかのように鬼道家5男は言い放ったのだ。
『はあ? 餓鬼は死んでねえよ』
紅葉は心底怪訝そうに告げて藤之助の発言を退けた。すぐに松蔭に地下の捜索を指示した紅葉は、江都と猿神を連れて早々に関東へ向かったのだ。
少し体調が良くなった杏珠は、藤之助の部屋で休みながら料理本のページを捲る。
「藤之助、桜太郎様のこと……」
部屋に来る道中、桜太郎の話を使用人たちが囁きあっていたのを思い出して、杏珠が口を開く。
「別に平気だけど? あの人とはあんま喋ったことなかったし」
ベッドに寝そべった藤之助は、抱き枕を頭上に投げながらそっけなく答えた。
けれど、杏珠は知っている。彼が桜太郎に連れられて竹次郎の墓参りをしていたこと。桜太郎から、赤ん坊だった藤之助の話を聞いていたことも。
その姿は、本当の兄弟のように見えた。
平気だなんて、藤之助の強がりだ。
「そ、そういえばさ! 橙子さんが殺された日の夜、アリバイ探しに柚蔵の部屋の前通ったら、何が聞こえてきたと思う?」
話をそらそうとしたのか、藤之助は不意に思い出したように食い気味で言った。
「女の喘ぎ声だよ。それもえげつないくらいエロいヤツ」
彼が、下品な話題を出すことで杏珠の気を引こうとするのは、今に始まったことではない。けれど、今だけは悲しみを紛らわすための手段でもあるのだろう。
「……」
恐らく、その『女』とは椋のことだ。父が椋の関係が、普通の兄弟とはかけ離れたものであることは杏珠でさえ知っている。
けれど、そんなことを口にすれば純粋な藤之助はしばらくご飯が食べられなくなってしまうだろう。
杏珠は口を噤んだまま話を聞いていた。
「自分の娘が殺されたのに女とヤる精力はあるとか、ジジイのくせにイカれてるよな。楓さんは分かってなかったみたいだけど──あの人、絶対童貞だぜ」
藤之助は、まだ杏珠の気を引こうとしているのか、一方的に話を続けている。
「藤之助も童貞だけど」
「ち〜……」
2人がかりで冷静に突っ込まれ、藤之助は分かりやすく顔を赤らめて両手を下ろした。
「何で息ぴったりなんだよ……!」
藤之助は苛立ったように抱き枕を放り投げる。チー太は杏珠に目配せをして、羽音を響かせながら藤之助の肩に留まった。
「だいたいチー太、お前だって彼女いないじゃん──」
藤之助は目を丸くしたまま、耳に手を当てて固まっている。心配になって彼の顔を覗き込んだ杏珠は、藤之助の顔の前で手を振った。
「藤之助?」
「ちー!ちー!」
反応のない藤之助を心配して、チー太がバサバサと羽音を立てながら声を上げる。
「きた」
藤之助がハッキリと呟いた。
「何がきたの?」
「叔父さんからのSOSだよ。お前らも来い!」
前髪をかきあげてニヤリと笑った藤之助は、杏珠とチー太の制止も聞かずに部屋を飛び出した。




