【狐の輪 教え授けし 鬼遊び】17★
「ボクが一番乗り〜っと!」
しっぽを揺らしながら、猿神が水の輪を潜るようにして渦の中へ入っていく。その後に豪鬼と八雲が続き、最後に紅葉が水の壁に手を触れた。
紅葉は八重花に何かを告げて、重そうに頭を揺らしながら彼らの後に続いていく。
「香取様、どうかお気をつけて……」
八重花は、赤くつぶらな瞳を香取に向けた。それだけで、心配そうな表情が伝わってくる。
「ありがと、八重花さん。それから……さっきはごめんね、ビビって大きな声出しちゃって」
八重花が、慌てて頭を左右に振った。なおも心配そうな八重花の顔を覗き込む。
「アタシ、もう平気だからさ。絶対ハクを助けてくるよ」
八重花を元気づけるように──そして自分を鼓舞するために、香取はキッパリと言い放った。
「さてと──香取ちゃんは、おばさんと一緒に行こうか」
自主的に最後に残った江都が、気さくに手を差し伸べる。香取はその手を取り、先に入った彼らに続いて足を踏み入れた。
少し警戒したが、水で出来た«路»は体が沈むことも、濡れることもない。まるでエスカレーターのように、香取たちを前方へと送り出していく。
「名付けるなら、水纏の小径──といったところでやんすねぇ……」
筆を指でくるくると回しながら、千代之介は瞼を伏せて言った。すっかりネタ出しも一段落して、気分が良いらしい。
「そこはドラーヘンファートとかにしてよ。龍神の道ってルビも振ってね」
香取が千代之介を見ずに提案する。まるで、昔馴染みの友と話すような温度感で。
「あちきの世界観が壊れるでやんす〜……」
「は? ドイツ語かっこいいじゃん」
回していた筆を止めて唇を尖らせる千代之介に、香取がすかさず突っ込む。
不意に、傍にいた江都がくすくすと笑った。
「ごめんごめん。香取ちゃんってば、幽霊に憑かれてる割にずいぶん楽しそうだったからさ」
江都はそう言って笑うと、香取に気を遣ったのか前方にいる猿神の元へ向かう。
オタクトークを聞かれたような気持ちになって、香取はジト目で千代之介を睨んだ。
「アンタ、あんまり話しかけないでよ。絶対痛いオタクだと思われた」
「ええ〜? 今更でやんす……」
千代之介は、飄々と毒づいて筆を走らせる。その顔は、謎を多く残して死んだ文豪、柳川千尋の名に相応しいほど整っていて、死人とは思えないほど晴れやかだ。
女性的な顔立ちに、上品な所作──。
見れば見るほど、その横顔は先程の薙刀男、鬼道椋に瓜二つだ。彼も、顔立ちの整った美しい男性だった。……状況が状況だけに、その美しさが不気味ではあったが。
楓が大人になったら、彼の面影を残した美青年になるのかもしれない。
(それにしたってさ……)
彼らはあまりにも似すぎていると香取は思う。
千代之介は、本当に鬼道椋と無関係なのだろうか?
せめて先程もう少し踏み込んで聞いていたら、何か分かったかもしれない。しかし紅葉は、語るそぶりすら見せずに香取たちの遥か前方で背を向けている。
「アンタさ──アタシと会う前はどこにいたの?」
陰陽師たちの後ろ姿を見ながら香取が尋ねると、ケロッとした答えが返ってきた。
「それがですねェ……本の中で寝てたことしか思い出せなくて。そりゃ〜もうぐっすりすやすやでやんすよ」
千代之介は、両手を重ねて眠るようなジェスチャーをしながら無邪気に答えた。嘘は言っていないようだが、自分のことなのにずいぶん楽観的だ。
「確かにあちきはこの世に未練がありますし、叶うならもう一度怪異を見たい! と思ったでありんすが……化けて皆様に迷惑をかけようと思ったことはございやせん」
千代之介はそう言いながら、両手を幽霊のようにぶらりと下げて見せる。
既に迷惑を被っているぞ、と呆れる香取だったが──。
不意に何かを思い出したのか、千代之介は『そういえば』と続けた。
「あちきが寝てる間、本の持ち主が変わったような……?」
千代之介の視線が、香取のハンドバッグに注がれる。その中には、千代之介が書いた直筆の本があった。
著者、柳川千尋と書かれた初版本。大切に読まれてきたのか、保存状態がとてもいい。
(千代之介自体に害はない……と思う)
さすがに、これだけ一緒にいるのだ。嫌でも千代之介の人柄は分かってきた。
けれど、何だか釈然としない。
香取はぼんやりと考えながら、変わらない景色の中で目を伏せていく。ゆるやかな水の流れに、身を任せるように。
「そろそろ着くみたいでやんすよ、香取センセ」
千代之介は、ふわふわと体を漂わせながら、さりげなく香取の後ろに隠れるように近づいてくる。
「何してんの、アンタ?」
突然背後に回り込まれて、香取が怪訝そうな眼差しを送った。
赤い瞳に睨まれた千代之介は、庇護欲をそそる乙女のような表情を浮かべる。
「いきなりあの辻斬りが出たら怖いんで、香取センセに守ってもらおうかと……」
「紅葉さーん、やっぱコイツ祓って」
香取がふざけて前方の紅葉に声をかけると、千代之介は慌てて香取から離れた。
ほんのひとときの、和やかな空気が水の中を漂う。
間もなく辿り着くのは、水の路の終着。
友達を救うため──。
計画を阻止するため──。
身内の不始末を正すため──。
運命に翻弄される少女を守るため──。
香取の知らない様々な因縁と思惑が、ゆっくりと、流れるように集まっていく。




