【狐の輪 教え授けし 鬼遊び】14
「傷を治しても、貴様の力は回復していない。今向かうのは愚策だ……やめておけ」
襖に手をかけ、今まさに部屋から出ていこうとしていた彼に声をかけたのは、豪鬼だった。
その赤い瞳には、未だ癒えぬ八雲の輪郭が、まるで陽炎のようにぼんやりと揺れている。
八雲はその視線を訝しげに受け止めていたが、やがて舌打ちをして襖から手を離した。
「今から登山かよ。だりぃ……」
「あんたはそればっかだね」
2人のやり取りをよそに、紅葉と江都は緊張感のない様子で、早速神和樹海へ向かう計画を立てている。
大人たちの打ち合わせを聞きながら、香取はひとり所在なげにうつむいていた。
こんな時、意気揚々と話しかけてくる千代之介は気配すら見せない。
(あれだけ人を焚き付けておいて……もう成仏したわけ?)
いつもならここで、彼は空気を読まずに話しかけてくる。自分の創作欲のためだけに香取に本を手に取らせ、現代の怪異をその目で見たがっていた、何とも迷惑な幽霊作家。
けれど今、彼は姿を見せない。たったそれだけのことが、香取を無性にイラつかせていた。
そんな時。
香取の手に、何かが触れた。それはずっしりと重みがあり、ひんやりしていて気持ちがいい。
ビクッと体を震わせて手元を見ると、白く艶のある鱗が目に飛び込んできた。
太く、重みのある胴体。それが腕に絡みつこうとしている。
「うわあああッ!?」
悲鳴を上げた香取はのけぞり、思わず尻もちをついてしまう。
「ほにゃ!」
悲鳴を上げる香取に驚いて、蛇が情けない声を上げた。それがますます混乱を煽り、腰が抜けてしまった香取は、這うようにして江都の袖にしがみついた。
「な、何かいる! 何かいるッ!」
香取は、あまりのパニックで語彙力すら崩壊しながら叫んだ。江都の肩口から、紅葉と猿神が顔を覗かせて香取の指した方向を目で追う。
畳の上には、立派な白蛇が堂々ととぐろを巻いていた。その蛇の頭には2本の角と、そして下肢にはまさかの足が生えているのだ。
「八重ちゃんじゃん」
そんな香取の混乱をよそに、猿神は躊躇いもなく蛇の胴体を両手ですくい上げる。
蛇の胴体が優雅に揺れながら、猿神の顔の近くまで持ち上げられると──白蛇は、人間のように頭をもたげて言った。
「お、驚かせてしまって申し訳ございませんっ……儂です、お分かりになりますか? 香取様」
赤い瞳をした蛇は、おろおろしながら頭をもたげている。
どこかで聞いた気弱そうな声と名前に、香取は『あっ』と声を上げた。
「八重、花……さん?」
その名を口にした瞬間、名前を呼ばれた八重花は、嬉しそうにぶんぶんと頭を振って頷いた。
その鱗はまるで月光を纏ったように淡く光り、角は真珠のような滑らかな質感を放っている。
しなやかな体をくねらせるその姿は、まさに柳川千尋の本に登場する怪異、ミズチのよう……。
こんな時まで脳裏を過ぎる胡散臭い赤毛の作家の姿に、香取は思わずかぶりを振った。
そんな香取を見て、八重花はかわいらしく小首を傾げている。
「柊様の言いつけで……ずっと力を蓄えていたのです。お話は伺っておりました。どうか、儂の力をお使いくださいませ」
猿神の手の中で身を小さくしながら、八重花が恭しく頭を垂れる。
「ま、先に関東入りしてるはずのあいつが何もしてないわけないか。白蛇様は一体何をしてくれる気?」
江都は笑って香取の肩を軽く撫でると、猿神に指示をして八重花をテーブルの上に置いた。
八重花は器用に口を使って、菓子の入った箱に蓋をしてから一同を見上げる。
「ミズチの儂には、ヒトには見えない特別な《路》が見えます。皆様を結界の元に案内することも……」
「ならば今すぐに連れて行ってくれ」
八雲の声には焦燥が滲んでいる。八重花はおろおろとした様子で頭を下げた。
「も、もちろんそのつもりです。しかし、柊様を待ってからでないと……」
「兄貴はいいだろ。野暮用って言ってたし」
辛辣な紅葉の返事に、八重花はしゅんとした様子で頷く。
「じゃあ確認だけど……敵さんの本拠地に行くのは私と紅葉、日吉、古御門、常夜の王様でOK?」
江都が最終確認を取る。が──。
「いや」
紅葉が言った。
「そこの嬢ちゃんも連れていく。椋に顔がバレてる以上、口封じに遭う危険性もあるんでな」
きょとんとした様子で、香取が顔を上げる。紅葉の赤い瞳が、まっすぐに彼女を見つめていた。
「珍しいね、あんたがそんな優しい男だったなんて思わなかった」
「うるせえよ……」
江都にからかわれた紅葉は、嫌そうな顔を隠すことなく舌打ちする。
やがて、鳥の巣のような自分の髪を片手でかきあげた紅葉は、香取を一瞥するなり一言。
「行くのか行かねえのか、さっさと決めな」
それだけ言って、ゆっくりと体を起こすのだった。




