【狐の輪 教え授けし 鬼遊び】10
「悪くねえな」
京都からやってきた陰陽師、鬼道紅葉はバターサンドを片手に言った。その菓子が誰のために用意されたものなのか、知る由もない様子で。
「ちょっとぉ、八重ちゃんいないのぉ? 誰か麦茶持ってきてくんない?」
猿神が間延びした声を上げた。彼らが寛ぐ居間の隣にある空き部屋では、深手を負った古御門八雲の応急処置が行われている。
術を使えば、八雲の傷を治すことは容易い。しかし、その場にいる誰もがそれをしなかった。彼に施されているのは、ひとまずの応急処置だけだ。
「ねぇ〜、聞こえないのぉ?」
もう一度、焦れったそうに猿神が声を上げる。無視をしようとした香取だったが、江都に目配せをされ、やがて仕方なく立ち上がる。
人数分の麦茶をトレイに乗せ、それを客人の元へ運んだ。
「……ほら」
「ありがと♡」
猿神が無邪気に笑った。
その眩しい笑顔は、香取がこれまでに見てきたモデルやアイドルが、霞んでしまうほど。雪のように白く長い髪と、ルビーのように赤い瞳、そして──彼女の白い尻尾は、現実味がない。可憐さの中に、危険を孕んだ美少女だった。
「だりぃ……約束の時間はとっくに過ぎてるんだが。あの馬鹿、どこで油売ってんだ?」
紅葉が気だるげに呟く。そんな紅葉を見ずに、八雲の手当てをしながら、江都が笑う。
「あいつが時間にルーズなのは昔からでしょ」
香取から受け取った消毒液で、傷口を手際よく清潔にしていく。
返事の代わりに、紅葉は畳の上で大の字に寝転んだ。
以降、沈黙。
江都は引き続き、八雲の出血を抑える程度の手当てを再開した。
猿神は、マイペースにバターサンドを食べ、そして紅葉は木刀を手にしたまま、眠そうな顔で天井を見つめている。
つい先刻まで、ここでは命のやり取りがあった。それなのに、誰も動揺する者はいない。
香取だけが、常識を忘れた世界に迷い込んだような心地でいた。まるで、テレビの前にいる視聴者のような、現実味がない光景。
もう既に、自分自身もこの渦中にいるのに。
「……さっきの奴、何が目的なの?」
まるで殺し屋のように、躊躇いもなく薙刀を振るった男のことを思い出しながら、香取が尋ねる。
江都の視線は、手元へ向けられたままだ。
手際よく八雲の止血を進めているが、根本的な治療は施していない。
「さあ──私は話してもいいと思ってるけど」
江都の手が、包帯をキツめに巻いていく。その痛みで意識を取り戻したのか、八雲が呻いた。
「ど、け……」
多量の出血をものともせず、八雲が江都の手を押しのけて、体を起こそうとする。
しかしその力は弱々しく、傷ついた体は呆気なく畳の上に崩れ落ちてしまった。
咄嗟に手を貸そうとする香取を、江都がやんわりとした動作で遮る。
「あんた、本当懲りないわねぇ。まだ頭に血がのぼってんの?」
これ以上流す血もないだろうに、と呆れたように肩を竦める江都。
八雲は、呼吸を乱しながら傷を押さえている。その額には、脂汗が滲んでいた。
「あんたの大事なお姫様は、魔王と一緒に次のステージだよ? おまけに中ボスだって控えてる。HP0で仲間もいない、瀕死のあんたに太刀打ちできると思う?」
この状況をゲームに例えて江都が畳み掛けるが、八雲は黙したまま答えない。
薙刀男との戦闘後、八雲は香取たちの制止を振り切って、何度も立ち上がろうとした。
けれどそのたびに、力尽きて意識を手放してしまうのだ。
「キイチの異変に、気づけなかった……」
長く押し黙っていた八雲が、呻くように呟く。その手には、血が滲んでいた。傷を押さえた時に付着したものではなく、感情のままに強く握りしめた拳が皮膚を突き破り、鮮血を滴らせている。
「アイツを救えるなら……無価値な俺の命など、喜んで差し出そう」
それは、狂気じみた宣言。
香取は、赤く染まっていく包帯を横目で見ながら、小さく身震いした。死に至るほどの傷を負ってもなお、戦うことを諦めない八雲に恐怖して。
けれど──。
──わかんない。どうして、そんな風に命を粗末にできるわけ?
香取は、古御門キイチの人となりを知らない。大切な存在だということだけは──嫌というほど伝わってくる。
けれど、自分の命が無価値だなんて──そんなこと、誰にも言って欲しくはない。
何故、簡単に命を捨てることが出来るのか。
怖いくらいに胸に響く言葉に揺れる彼女を、俯瞰して見つめる幽霊──柳川千代之介が、満面の笑みを浮かべていた。
自分には理解できない感情を、それでもなお理解しようと苦悩する少女の姿に。
あァ──これはいい。
──物語を綴る者として、実に上等じゃァないですか。




