【狐の輪 教え授けし 鬼遊び】8
「え……?」
薙刀が振り下ろされる瞬間、香取の目の前に広がっていたのは、見知った廊下に、見知った玄関。そして、ほんの僅かに香る白檀。
鬼道家の中だ。
鬼道家には、邪を祓う結界が張ってあると聞いたことがある。ただし、それは相手が妖怪ならばの話。人間には効果はない。
「この程度の転移では……時間稼ぎにも、ならないか……ぐぅッ……」
古御門八雲は、そう言って壁にもたれるように崩れ落ちてしまう。足元には、血の海が広がっていた。
「……っあ、あ……」
香取は、目の前の惨状を見てすっかりパニックに陥っていた。
そんな香取の肩口から、千代之介が声をかける。
「香取センセ、止血用の布と氷嚢を用意してあげないと、この人死んじゃいます」
動揺する香取とは真逆に、千代之介は冷静だった。このような血なまぐさい光景は見慣れているのかもしれない。
「──そ、そっか。だよね、待ってて……」
その場で動けずにいた香取は、慌ててミュールを脱ごうとした。
しかし、もたついた足は急ぐ体についていけず、段差に引っかかる。
「うあッ!」
倒れ込むように膝を強打して、痛みに顔をしかめた。香取の目の前で、ハンドバッグの中身と、紙袋に包まれた菓子の箱が散乱する。
「香取センセ」
千代之介が、頭上で言う。びくっと香取の肩が小さく震えた。
「あちきにゃ、何も出来やせんよ。ただの死人で、人間ですもの。香取センセを助けることも、あの辻斬りを倒すことも出来やせん」
香取の思考を読んだかのように、千代之介が言う。それは緊張感のない、飄々とした──けれども、残酷な現実だった。
彼は陰陽師でもなければ、式神ですらない。香取を救ってくれる力など、無いのだ。
「ですが──こんなところで死ぬはずもない」
不意に、胡散臭い糸目が、弧を描いて確信めいた笑みを見せる。おずおずと顔を上げた香取を覗き込むように、千代之介が笑った。
「センセがここで死んだら──物語が未完のままでやんす。あちきは未完の物語なんて許せない性分でねェ。どうせ死ぬなら、あちきが満足するまで書ききってからにしてくださいよ」
薙刀男とそっくりな顔をした、純度たっぷりの畜生。
ほんの一瞬でも、何かを期待した自分を恥じたい。彼はどこまでも創作者なのだ。
香取が舌打ちした時、壁にもたれたままの男が、何かを呟く声が聞こえた。
「キイ、チは……必ず……助け……る」
八雲は、浅い呼吸をつきながらうわ言のように呟く。
このまま放置しておけば、彼の命はない。
香取は、足の痛みをこらえて体を起こした。
まずは救急車を呼ぼう。それから、止血。千代之介の言う通り、布と氷を探して応急処置をする。
(じゃないと、アタシ……)
香取の手が、床に転がったスマートフォンに手を伸ばした。
そんな香取の背中で、楽しげな男の笑い声が聞こえる。
それは、殺人鬼の冷酷な微笑。
「へぇ……それが最期の言葉でええのん? 痛いなぁ、怖いなぁ……かわいそうでボク、見てられへんわぁ」
それは、耳にこびりついて離れない、不快な死神の声。
はたまた、子守唄のように優しい天使の声。
どちらも、香取たちを死に導く者の声であることは間違いない。




