【狐の輪 教え授けし 鬼遊び】5
「キイチ──キイチ、起きているか?」
7月26日。早朝。
既に出かける準備を済ませた八雲が、寝室に声をかける。
楓が京都に行ってからというもの、キイチは元気がない。寂しいのか、甘えてくることも増えた。
出来るなら、キイチの傍にいてやりたいし、八雲自身もキイチの傍にいたいと思う。
八雲は、心配そうに盛り上がった布団を見つめて言った。
「帰ってきたら、一緒にプリンを作ろう。鬼道楓が帰ってきた時に、お前がプリンを作れると知ったら、きっと驚くぞ」
「……」
僅かに布団が動いたのを見て、八雲は微笑む。
「今日は早めに帰れるはずだ。行ってくる」
八雲は静かに襖を閉めた。
足音が玄関に向かい、やがて鍵のかかる音が聞こえる。
布団の中で、ゆっくりとキイチが寝返りを打った。
その瞳は虚ろで、まるで光を忘れてしまったかのように瞬きすらしていない。
「……」
誰もいない家の中で聞こえてくるのは、セミの声だけだった。
キイチは、ふらふらと起き上がり、何かに導かれるようにして襖を開け、玄関へと向かう。
白い手が玄関の引き戸を開けると、そこに立っていたのは、和傘を差した背の高い麗人だった。
「キミは今、幸せ?」
金糸雀色の和服を着た麗人が、和傘の下で優しく微笑む。
彼には、一度会ったことがある。けれど、不思議と以前のような恐怖は無かった。
かつて同じ問いかけをされた時、キイチは幸せだと答えた。
兄がいて、八雲がいて、自由に歩けて、学校に通える当たり前の日常。
果たして、その幸せは、本物だろうか。
今のキイチには、頷くことができない。
「安心してください」
麗人の横には、白い服の少年が立っていた。
彼には初めて会うはずなのに、キイチは何故か、その少年の名前を知っている。
「こは……」
名前を呼ぼうとした──その瞬間、銃声が響いた。神業とも言うべき反射神経で、麗人の薙刀がその銃弾を跳ね返す。
息を切らしてそこに立っていたのは、出かけたはずの八雲だった。
「あらあら……キイチくんに当たったらどないしますの?」
麗人は、くすくすと笑いながら、和傘を少年に預ける。少年は、和傘の中にキイチを招き入れ、慈愛に満ちた声で言った。
「あなたの居場所は、狐の輪が授けてくださいます」
少年が琥珀色の瞳を優しく細める。その声は、今のキイチには心地よいものだった。孤独や恐怖が、全て包み込まれていく。
「キイチから離れろ!」
八雲が叫び、再度和傘に向けて発砲するが、瞬く間に懐に斬りこんできた麗人によって防がれる。
「ぐ……はっ!」
呆気ない一撃によって、青い空に鮮血が舞った。地面にぼたぼたと垂れ落ちているのは、八雲の血だ。八雲は、大きく切り裂かれた胸を押さえて数歩よろめいた。
「キ、イチ……」
浅い呼吸を繰り返しながら八雲が歩み寄ろうとする。しかし、その体はぐらりと傾いて膝を着いた。
「……ばいばい、八雲」
魂が抜けたような、キイチの呟き。それが八雲に届いたかは分からない。
庭先で揺れる無垢な白百合が、血を浴びて黒く染まっていく様子を、冷たい瑠璃色の瞳が静かに見つめていた。




